« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月30日 (金)

「議員日記」お休みのお知らせ

 今日が告示日で、「日記」(ブログ)は、8日迄、お休み致します。

 私は、毎日、市内を遊説で動いております。9日から再び始める「日記」で皆様とお会いできることを楽しみに致しております。

            中村のりお

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月29日 (木)

「いよいよ出陣ブログも休みに、そして、ボランティアを募る」

一日も休まずに続けたこの「日記」も今日で一まず打ち切りにする。公選法上の「文書」に当たるためだ。4月9日から再会し、「県議選かく戦えり」を書くつもりだ。

 選挙は基本的にボランティアの集まりである。契約によって、上下左右の規律に縛られる人々ではない。そして、一つの目的に向って燃えて熱くなるから、個と個が衝突する可能性が常に存在する。私は、長年の経験で、選挙の場は、一人一人の人間性が最も赤裸々に現われる場だと思う。目的は同じで善意の塊のような人々なのに、時に攻撃し合い、傷つけ合ってしまう。悲しいことだと思う。金を使って人を動かす場合は、事情は全く異なるだろう。しかし、それでは民主主義を否定することになる。選挙は民主主義を実現する最も重要な過程なのだ。だから苦しいけれど耐えねばならない。  第一回の選挙で大活躍してくれたTさんが選挙用の掲示板のポスター貼りを手伝ってくれることになった。涙が出るほど嬉しかった。

私の「日記」及び、それから作製した「県政報告」を読んでくれた多くの人に感謝したい。明日から選挙戦に突入するが、私の選挙を支える力はボランティアの人々である。誰でも参加して人の輪にはいることが出来る。是非参加をして頂きたい。美人で気の利いた由紀子さんと香織さんが窓口である。「℡・(269)8039 fax・(269)8199」。

 なお、選挙期間中の大きな大会は11ヶ所あるが主なものは次の通りである。

4月2日(月)6:00 総合福祉会館(日吉町)
4月3日(火)6:30 建設会館(元総社)
4月4日(水)6:00 ロイヤルホテル(女性集会)
4月4日(水)6:30 グリーンドーム

 どなたも参加して選挙の実態を知っていただきたい。激戦を勝ち抜いて、再び「日記」で皆さんとお会いしたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月28日 (水)

「いよいよ告示まで2日間」

 今、28日の午前530分。昨夜はぐっすり眠れた。新鮮なエネルギーを蓄えた心で見る世界は違って見える。疲れた時に、重要な決断を下すなという諺が納得できる。これは、私だけの問題ではない。忙しく、夜遅くまで働いている事務局の人や運動員についても同じことだ。戦いに突入する前に心にエネルギーを充電しなければならない。

 昨日、一人の若者が戦列を離れた。原因は仲間との喧嘩である。小さなことで、と思うが当人とすれば、心が傷つけられたことが大きな問題なのであろう。短期間だがよくやってくれた。彼の動きは、わが陣営の疲れた人々の心にすがすがしい春風を吹き込むような効果があった。全てが終った後で美味しい酒を酌み交わし、あの時はと、楽しく語り合えればと思う。感謝。

 実は、黙々と作業に打ち込んでいるもう一人の若者がいる。北海道の大学に進学することが決まっているS君。となりのおばさんたちが大声で世間話をしているのを、聞いているのかいないのかにこりともせずホッチキスの手を動かしている。「S君、学校では学べないいろいろなことを教わるだろう」といったら、にっこりと笑ってうなずいていた。4月からは、北海道の大地で力いっぱい学び大きく成長して欲しい。感謝。

 若者といえば、時々、母親とやってくるT君がいる。私の言動に刺激されて本が好きになり勉強をよくするようになったという。この特殊な集まりが少年の大志を育てるきっかけになれば望外の幸せだ。全ての細流をあわせて大きな流れが、今始まろうとしている。

『シベリアのサムライたち』

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」       (第11回)

 作業拒否闘争が始まって間もない頃であった。青年防衛隊宣誓式と銘打って式は屋外で行なわれた。凍土の上に、シベリアの雪が静かに降っていた。若者は整列し、代表が宣誓文を読んだ。凛(りん)とした声が雪の空間に響く。顔にかかる雪にも気付かないかの如く、青年たちの瞳は澄み、燃えていた。敗戦によって、心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿は一変し、何者も恐れぬ気迫があたりを制していた。彼らの胸にあるものは、かつて無敵を誇った関東軍の勇姿であろうか。いやそうではない。もっと大きな崇高な理想が彼らを衝き動かしていたのだ。それは、国のため、天皇のためという上からの命令ではなく、自らの意思に基づいて人間の尊厳を取り戻すことを目的に、友のため、同胞のために正義の戦いに参加しているのだという誇りであった。

「私たち青年130名は、日本民族の誇りに基づいて代表を中心に一致団結し、闘争の最前線で活躍することを誓う」と宣言し、我々は代表と生死を共にする、我々は老人を敬い病人を扶ける、我々はすべての困難の陣頭に立つ、我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、と続いた。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月27日 (火)

「事務所の人々は疲れて限界だ」

 マラソンで言えば、最後のグラウンドが見える所まで来て、あえいでいる状態である。心がささくれだって、時に殺気立つ。目的は一つで、皆、善意の人々なのに些細なことで傷つけ合ってしまう。態勢を立てなおしてゴールを目指さねばならない。

 今、27日の午前4時半、眠れないでこの日記を書いている。昨日も、仲間同志のトラブルがあった。心が疲れると冷静さが失われ、視野が狭くなり、寛容さがなくなる。悲しいことだ。今朝は朝礼で訴えようと思う。呼吸を整え、微調整して、一点のゴールを見詰め、最後の力を目指しましょう、と。

 4年前と大きく異なる状況が現われていることを感じる。見えないところには何があるのか。私は影に怯えているのか。悩んで、考えて一つの結論に至る。それは、人間を信じよう、勝利を信じて最善を尽くそう、ということだ。

 謙虚になれば、駒が見える。打つ手が分かる。謙虚とは、気弱になることではない、心にかかるもやもやを取り去り、心の目を澄ますことだ。ここまで考えて、先人の言葉を思いだした。「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言う武士の心だ。サムライに学びたい、サムライに変身したい。ハバロフスク事件の渦中の人々の姿を思い出す。酷寒のシベリアで戦った人々と同じ日本人の血が私の中にも流れている。それを信じて頑張ろうと思う。午前5時になった。1時間でも眠ることにしよう。

『シベリアのサムライたち』

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実」(第10回)

また、1956年(昭和31年)1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、「モスコー政府の人道主義は、今、地方官憲の手によって我々に対して行なわれているようなものではないことを確信し」と表現する。

 これらは、皆、瀬島龍三のアドバイスによる中央を持ち上げて地方をたたくという作戦に基づいていることが分かるのである。

 収容所側は、作業拒否に対して、「これは、まさに暴動である。ソ連邦に対する暴動である。直ちに作業に出ろ」と執拗に迫った。そして減食罰などを適用しながら、一方で、「直ちに作業に出れば、許してやる」といってゆさぶりをかけてくる。

 予想される収容所側の対抗策は、首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることであった。これに対する防衛策として、石田三郎は、各班から護衛をつけてもらい夜ごとに違った寝台を転々とする生活を続けた。

(5)青年防衛隊の熱情

 代表石田三郎が当局によって拉致されることを誰もが恐れた。また、ハバロフスク検事総長は、収容所を訪れ、作業拒否に対して、「直ちに停止せよ、さもなくば・・・」と武力弾圧をにおわせていた。このような状況の中で、日本人の間で、一つの動きがあった。35歳以下の若者130名が自発的に青年防衛隊なるものを結成し、その結成式をやるから出てくれと、若者の代表が石田の所に来て言った。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月26日 (月)

「告示まで、あと5日、事務所は戦場の如し」

 昨夜は、規模の大きい選対会議があった。私は、別の地域の会合に出てから駆けつける。途中、弟の賢三から「終ってしまう」と電話。広間は立錐の余地がない程の人。私は、体内のエネルギーが残り少ない事を意識しながら、それをふりしぼって訴えた。

「いままで、それぞれの場所で、それぞれのお立場で、皆さんに頑張って頂きました。それを結集し活かして勝利に結びつける時が来ました。戦いはいつも辛いものですが、今回は特別です。どうか力をお貸し下さい」と。

 嫁いだ娘が頑張っている。「初めてビラ配りをしておじさんに叱られたのは高校生のときだった」と懐かしそうに振り返っている。夫のO君も慣れない作業に熱心に打ち込んでいる。

 戦いを決する要素は、「地の利、人の和、天の時」とよく言われるが、人の和が最も重要であることは、昔も今も変わらない。多くの人の心が一つになれば凄い効果を生む。多くの人々の顔が浮かぶ。その顔の向うに私がまだ知らない無数の人々がいる。これらの人々に如何に私の心を伝えるかが最大の課題となる。

 私の2人の弟とM君が、選挙カーのコース作りに余念がない。選挙カーの動きを笑う人がいるが、支持者は待っている。敵を知り己を知らば百戦危うからずという。自分を知ることが一番難しい。短く的確な表現で訴えることは、重要な意味があるのだ。それが選挙の実態なのである。M君は、前高の夜間を、無欠席で通した忍耐の人。多くの人の支えで大きな歯車がぎしりと回りだした。

『シベリアのサムライたち』

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」(第9回)

石田三郎は、有効な作戦を立てるため、また、重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を組織した。その中には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいた。石田はこれらの人に、危険が及ばぬよう名は公表せず、個人的に密かに、そして頻繁に接触したと、「無抵抗の抵抗」の中で述べている。顧問団の中には、瀬島龍三もいた。瀬島は、回想録の中で次のように語る。「平素から私と親しかった代表の石田君は決起後、夜半を見計らって頻繁に私の寝台を訪ねてきた。2人はよそから見えないように四つん這いになって意見を交換した」又、回想録は、重要な戦略についても意見を交わしたことを述べている。それは、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願すべきだということであった。

 石田三郎たちは、中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表等々に請願文書を送る運動を展開するが、資料を見ると、その文面は、必ず、一定の形がとられている。例えば、1956年(昭和31年)2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」と中央の政策を最大限誉め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、「労働力強化の一方策として、計画的に病人狩り出しという挙に出た。収容所側の非人道的扱いに耐えられず生命の擁護のため止むを得ず、最後の手段として作業拒否に出た」だから、私達の請願を聞いて欲しいと述べている。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月25日 (日)

「画竜点睛、竜は天にのぼるか」

 大きな作戦は大詰めを迎えた。画竜点睛というが、正に竜にひとみを入れる時だ。大きな竜は、目を開き、体をふるわして点に騰ってくれるか、私の胸には期待と不安がある。事務所の動きは慌しくなっている。女性事務員のSさんは小柄な身体で飛び跳ねるように動いている。いくらか体調を回復した妻が事務所に出ると私の心はほっとする。

 横浜に住む旧友のO君が応援に駆けつけた。市内のホテルに宿をとって、二日間、実家や同級生の間を回ってくれた。彼は、夜間高校の同級生で、2人の間には、懐かしい青春の思い出がいっぱいある。「朝暗いうちにオートバイで富士見から手伝いに来たが居眠りばかりしていたなあ」こんな会話が交わされた。彼は、男気を出してだんごの製造を手伝った。今回も同じ気持ちなのである。脳こうそくを患ったというが、昔を語る時の瞳は輝いていた。

 夜、元中の同級生が集まってくれた。特に心を打たれたことは、N君とT君が来てくれたことだ。二人とも病に倒れて障害者になっているが、必死でリハビリをしたのであろう、車を運転出来るようになった。遅れて入ってきたT君は杖をつき足を引きずって、やっと、靴を脱いでいた。これまでに、2人とも、心の葛藤があったに違いない。真剣に生きる姿から勇気を頂いた。感謝。

 もう一つ書きたいことがある。昔の塾生の女性Aさんが母親と訪ねてくれた。届けられた私の「報告」を読み、それがきっかけで、ブログを読むようになったと話してくれた。真剣に事業に取り組んでいるとのこと。みな闘いなのだと思った。

『上州の山河と共に』連載64回

一紀会

 

主な団体については、後で触れるが、ここで一紀会という団体について少し触れたいと思う。

 一紀会の〞紀〝は、中村紀雄の〞紀〝である。そして、一つにまとまる、一丸となる、という意味を込めて、〞一〝の字が使われている。また、この会の成立のいきさつからして、百姓一揆の〞一揆〝がイメージされていたといえるのである。水洋会の中に、一際行動的で、血の気の多い人がいた。彼らは、水洋会の穏健なやり方に物足りないものを感じていた。このグループの中心であった小泉信治さんは、強い意志と緻密な計画で動く行動派であったが、いつも言っていた。

「中村のりおを当選させることは、大変難しいことだ。水洋会のように仲良しクラブのような動きをしていたのでは、当選できっこない」

 このような考えであるから、水洋会の中にいても、とかく意見の衝突がみられた。私は間に立って悩み、調整に心懸けたが、それはなかなか難しいことであった。結局、分離独立して別の会を作り、同じ目的を追求しようということになり、一紀会が誕生した。

 一紀会の会長は、道上文教君である。彼は、私の前高定時性時代の同級生である。定時制高校時代の彼は、昼間は、運輸会社で働き、夜は学校で学ぶという、二つの生活を両立させていたが、彼の凄い点は、定時制の4年間を無遅刻、無欠席で貫いたということである。これは、並みの人間の出来ることではなく、私も脱帽し、敬服しているのである。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月24日 (土)

「一日が速い。よく眠れるかが一つの課題だ」

 限られた活動の時間を有効に活かすためには、体力と気力が充実していなければならない。それは、一つに良い睡眠にかかる。心に不安がある時、夜中に目が醒めて眠れぬ事がある。予感がある時は、レンドルミンを少し飲む。医師には、この誘眠剤を一回に1/2錠飲むように勧められたが、私は、1/2錠を更に3つに割って口にふくむ。風呂に入り、焼酎を飲んだ後は、これでも利くのだ。昨夜はレンドルミンに助けられた。「県政報告」を作る作業も大詰めを迎えた。読者の反応が時々寄せられる。「自分であれだけ書けないだろう、誰かゴーストライターがいるのでは」と言う人がいるそうだが、これはもちろん毎回私自身が書いている。この話を聞いた事務のKさんが目を細めてにっこりする。

 昨夜は、市街地の役員に集まってもらった。「皇国の興廃はこの一戦にあり天気晴朗なれど波高し」これは、私の今の気持ちです。もちろんこの戦いは私個人のものでなく、教育、福祉、治安など山積みする難問を解決し真に豊かなる明日のふるさとを作るための戦いです、どうか最後の力を貸して下さいとその案内文は私が直筆で書いた。

 掲示板にポスターを貼ってもらう作業、選挙用ハガキの分担などが、協議された。広い地域に掲示板は770箇所ある。既に各地で目に付くようになった。30日、抽選で自分の張る番号が決まる。法定の選挙ハガキは8,000枚。そのうち約7,000枚が分担されていった。いよいよ戦いの火蓋が切られる。

『上州の山河と共に』連載63回

 初代会長は、島倉政栄氏だった。水洋会には、個性豊かな人達が集まっており、皆、目的の為に真剣であったので、時に火花が散り、トラブルが起こることもあったので、島倉氏のご苦労も大変なものであった。

 水洋会の会員は、会則の第三条にあるように、地域にとらわれずに、いろいろな所から集まっていた。そして、彼らの職業も、保険代理業、測量士、不動産業、八百屋、建設業、農業、看板業、自動車のセールスマン等、実に様々であった。そして、水洋会、後に、私を支援するいろいろなボランティア団体の中心的存在として活躍することになる。現在の水洋会の会長は、前橋青果株式会社の社長吉田伊四郎氏である。

 水洋会は、地域後援会の結成がなかなか難しいことから考え出された苦肉の策によるものであったが、この会の運動の過程で、幾つもの類似の団体が作られていき、意外な展開を示してゆくのである。

 ある団体は、方針をめぐる争いで水洋会から脱会した人々によって作られたし、また、ある団体は、水洋会の会員として活躍していた人が自分の別の仲間に呼びかけて、独立の会として作られた。これらの団体は、次第にそれぞれの特色を発揮して活動するようになっていった。これらの団体の共通の特色といえば、それぞれの内部では、みな対等な仲間であり、自分達はボランティアでやっているという意識を持っていることであった。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月23日 (金)

「最後の県政報告会は熱く盛り上がった」(22日)

◇午前7時、少数の幹部と選対会議。切迫した情勢の中で、次々と新しい課題が生じる。

午前7時30分になると、若宮町からやってきた血気のIさんが水まきを始める。やりすぎて多少波風を立てるが腹はない。午前10時になるとSさんがゴットンゴットンと印刷に取りかかる。機械に強いSさんは最近まで大きな企業にいて定年を迎えた人。もう一度何かにチャレンジしたいといって参加してこられたが、その動きは、かつての企業戦士をほうふつさせる。その後にやってくるのが若手のW君だ。30代で燃えている。最近、いかついおじさんと、「表に出ろ」などとおっ始(ぱじ)めたらしいが、そんな事も乗り越えて、最近は笑顔がいい。多彩なキャラクターの調和が生まれてきた。

◇最後の「報告会」は大前田町で。近くには大前田英五郎の生家があり、私の同級生の実家でもある。先輩の青木県議に遠慮していたが引退されたので、直ちに報告会を実施した。冒頭の挨拶の中で、青木氏に敬意を表した。

 大前田は、同級生が一番多い所。小学校4年のとき、苗ヶ島で火事があり窓から見える煙とジャンジャン鳴る半鐘の音に、いても立ってもいられず皆窓から飛び出して駆けつけた話をしたらどっと笑いが起きた。同級生のたーちゃんが支部長になってくれた。やはり同級生のふみちゃんが最後に女性を代表して、頑張りましょうと良い〆の挨拶をしてくれた。疲れた私の心に効果のある栄養剤を与えてくれた集会だった。

『シベリアのサムライたち』

石田三郎たちの抵抗運動は、忍耐と心の結束で、集団から無限の力が生み出され、何事もなせばなることを教えてくれる。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実」(第8回)

 かくて、769名の日本人は石田三郎を中心に結束し、死を覚悟の作業拒否闘争が始められた。役割をきめて組織がつくられ、戦術が練られた。この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人で、人材にはこと欠かなかった。このような人々が心の底から結束し立ち上がった点にこの闘争の特色があった。要求事項は、皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、全員を休養させること、病人や高齢者を作業に出さないこと、高齢者や婦女子を即時帰国させること、留守家族との通信回数を増やすこと、今回の事件で処罰者を出さぬこと等であった。(スパイとされた女性抑留者もいたのだ)。

 戦術としては、暴力は絶対に使わない、収容所側を刺激させないため、闘争という言葉は避け、組織の名称は交渉代表部とし、運動自体も請願運動と呼ぶことにする等が決められた。 石田三郎は全員を前にして決然として言った。

「私たちの最大の目的は、全員が健康で祖国の土を踏むことです。これからのあらゆる行動は、このことを決して忘れることなく心を一つにして目的達成まで頑張りぬきましょう」

「そうだ、そうだ」

ワーッと、会場は熱気で震えた。長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきた人々が、初めて日本人としての誇りを感じ、人間として自覚した瞬間であった。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月22日 (木)

「限界の中で、私の文を続けることにした」

 体力と気力は、限界に近いところにある。「日記」で原稿用紙3枚を毎日続けることも、限界に来て、しばらくの間、拙著「シベリア」をかわりに連載しようとしたが、こういう時だから一層、生の「プログ」を見たいという強い要望が寄せられた。私は、気付いた。画竜点睛という言葉があるが、私は、描いた竜にひとみを入れる段階に来て、それを放棄しようとしていることに。

 そこで、改めて、可能な限り、生の「日記」を書くことにした。「議員日記」からプリントアウトして作る「県政報告」は、今回の戦いの戦略の中心に位置づけられている。県道沿いのわが陣営の一角は、正に印刷工場と化している。膨大な紙は産廃業者から廃棄対象のものを入手、中古の機械は、ごっとんごっとんと苦しい坂道を走り続けるように動き、別の棟では、多くのボランティアの人達が4~5枚に揃えられたものを、パッチンパッチン綴じている。出来たものは、各地へ運ばれて、支部の人が配布に取り組んでいる。

 選挙は、人間の個性があらわになり、ぶつかり合って火花を散らす場である。義に感じて集まった人がよく衝突する。それが乗り越えられれば新たな力が生み出される。腹を立てて戦場から去る人もいる。申し訳ないと思うが、今の私には、立ち止まってかかわっている余裕はない。告示まで、およそ一週間となった。混乱の中に大きな流れが見えてきたかと思えるようになった。22日夜、大前田町で最後の県政報告会がある。

シベリアのサムライたち

「シベリアのサムライたち」は、いよいよ、石田三郎の人物像に迫る。差し迫った段階で、私は大いに学ぶところがあるのだ。

 「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」(第7回)

石田は要請を受けたとき、作業拒否を実行する班はどの班かと聞いた。班長会議の面々は、浅原グループを除く全部だと答えた。浅原とは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基のことである。

 作業拒否闘争の代表になることは死を覚悟しなければならない大変なことであるが、石田三郎は人々の熱意に動かされ決意した。石田は人々の前に立って言った。

「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。私には、親もない、妻もない。ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。皆さん、始める以上は力を合わせて、最後まで闘い抜きましょう」

 瀬島龍三は、石田三郎のことを振り返って、あの環境で指導者となったのは、友のため人のためという強い信念の持ち主だったからこそで、普通の人できることではなかった。事件の間、大局を誤らないよう折々私と意見を交わしたが、状況判断、対策など的確な戦略と強い指導力を見せたと語っている。

 ストライキや暴動に対するソ連の弾圧は峻烈(しゅんれつ)を極めた。ソ連人が収容される収容所において、ストライキや暴動が時々あったが、どれも戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑された。石田をはじめとする日本人も、ソ連のこのような方針を知らぬはずはなかった。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月21日 (水)

『上州と山河と共に』連載62回「水洋会の結成」

とにかくこのようにして、毎週水曜日の夜、20名から30名程の人が事務所に集まるようになった。参加する人達は、20代後半から30代が中心であった。

 これらの人達は、会議に参加して、やがて自分達が中心であることを知って、皆、一様に驚くのだった。県議選を目指すからには、既に大きな組織があって、年輩の肩書きのある人達が大勢役員として名前を連ねていて、自分達は無視されるようなそんざいに違いないと思っていたらしい。ところが、実際は、これから何もないところに組織を作ってゆくのだと言われ、その為にはどうしたらよいかと発言を求められるのだから、当惑するのも無理はなかった。

 初めは、口が重かった人達も、やがて、自由な雰囲気に慣れて活発に発言するようになり、時には激しい口論も起こり、会議はいつも活気に満ちていた。

 当初から、会議の議題は、いかにして後援会員を増やしてゆくかということであったが、会議を重ねるうちに、この集まり自体を組織的なものにしてゆくべきだという意見が出てきた。「このような会議を毎週やっていても、烏合の衆では、力を出せないのではないですか。会の名前を付けて、役員を決めて、きちんとした組織にすべきだと思いますが」ある参加者が、こう発言すると、多くの人が同じような不満を感じていたらしく、忽ちそうしようという事になった。会の名前については、いろいろな候補が上がったが、結局、「水洋会」とすることになった。それは、会議が毎週水曜日に開かれていたことから、水曜日の「水」の字を採ったのであるが、また、水が広がるように大きくなれという願いも込められていた。「洋」の字は、これと同じく、太平洋の如く、大きな組織にしてゆこうということで決められた。次いで、会則の案が一条ごとに討議されて作られ、これらが役員名と共に総会に図られて決定し、ここに名実共に「水洋会」が誕生したのである。当時の会則をひもとくと、次のような懐かしい条項が目に入る。

第一条      

本会は、水洋会と称し、中村のりお後援会の一支部とする。

第二条      

本会は、事務所を前橋市鳥取町786番地の2に置く。

第三条      

本会は、地域にとらわれず、広くそして絶えず、中村のりおの後援活動を支援し、あわせて会員相互の親睦と研修を目的とする。

第四条      

本会は、目的を達成する為、次の事業を行う。

1、                        

政策研修、討論会の開催

2、                        

会報の発行

3、                        

懇談会、旅行会などの親睦

4、                        

その他必要な事業 以下、11条まで続いている。

これらを見ると、タバコの煙がもうもうと立ち込める狭い事務所で、喧喧ごうごう、議論がたたかわされていた様子が昨日のことのように目に浮かぶ。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月20日 (火)

シベリアのサムライたち

 

旧日本軍の兵士は、天皇のため、国家のためという目的に向けて、あまりにも厳しい規律に縛られて行動していた。彼らは、人間の内なる力よりも外からの力によって動かされていた。それが、敗戦によって、戦う目的と外からの力が一挙になくなり魂を失ったようになった。収容所の日本人もそうだった。ハバロフスク事件は、日本人が、新たな、そして内なる力によって戦う目的を見出した真の戦いだった。

 「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実」(第6回)

資料によれば、昭和30年11月26日、収容所側は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26人を営外作業に適するとして無理に作業に出した。11月の末といえば、零下20度、30度、というシベリアの酷寒ある。病弱者には、外の作業は生命にかかわる。病状は悪化して営内にたどり着くや倒れる者が何人も出た。それにもかかわらず、12月15日になって、ソ連の将校たちは、さらに病弱で営内に居る別のグループに検査を実施して、外の作業に適するとして、新たに65人の者に、営外作業を命じた。必死の嘆願も耳を貸してもらえない。これらの人々の病状は悪化し、血圧は170、180以上になるものが多くなり、中には、200を越す者も出る始末で、寒風の吹きすさぶなか、病弱者は、ある者は友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は空虚をつかむ幽鬼のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張った。あらゆる嘆願運動は効果がなかった。囚人は、作業休を認められない限りいかなる状態でも休むことは許されない。休めば、非合法のサボタージュとみなされる。急きょ、班長会議が開かれた。「このままでは皆死んでしまうぞ」一人の班長が悲痛な声をあげた。「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。そうすれば、病弱の者はこの冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」別の班長が思いつめたように言った。他の班長も一様にうなずいた。では、どうしたらよいのか。収容所側にいくら懇願しても、誠意のある対応が期待できないことは明白である。では、このまま自滅を待つのか。話を進める中に、班長たちの眼光は殺気を帯びるほどに鋭くなった。

「自滅するよりは闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥だ」一人の班長が押し殺した声で言った。「同感だが、どのように戦うのだ」「いや、戦うなら勝つ戦いをしなければならぬ。さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」「まず作業拒否だ」「そうだ、そうだ」いろいろな意見が交わされた。そして、重大なことだから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになった。

 12月の19日を迎えた。各班の結論は作業拒否で戦うということであった。これで全体の方針が決まった。そこで、代表を決め固い組織をつくって、死を覚悟の交渉をやろうということになった。班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎であった。

★土・日・祝日、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月19日 (月)

シベリアのサムライたち第5回

 日本人は寒さに弱い。60万人を超える人がシベリヤに強制連行され、そのうち6万人以上が亡くなったが、その多くは初めての冬が越せない人々であった。抑留者のほとんどは、昭和25年迄に帰国したが、罪人とされた人々は、その後も長く苦しい抑留生活を続けた。その強靭な精神力は信じられない程だ。しかしソ連の過酷な扱いは、彼らをのっぴきならない状態に追い詰める。サムライたちはどのように意地を示したか…。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」(5回)

この問題は、ソ連で、抑留されている日本人の運命にもかかわっていた。ソ連も含めて平和条約を結べば、日本人は、すぐに帰国を許されることが考えられるからである。昭和二十七年に、日本人として、初めてハバロフスク収容所を訪れた参議院の高良とみは、海外抑留者の引き揚げ促進の運動にかかわっていたので、少しでも早く日本人をシベリアから帰国させるために、ソ連を含めた全面講和を強く主張していた。

 当時の世界情勢は、米ソの対立という冷戦状態の中にあった。そして、吉田政権は、現実的な選択として、アメリカを中心とした自由主義陣営と講和を結ぶべく、サンフランシスコ平和条約の締結に踏み切ったのである。

 このような大きな政治の流れの中で、シベリアの日本人抑留者は取り残された状態に置かれていた。わずかに情報を得ていたハバロフスクの収容所の日本人が、高良とみに、政府は、自分達の帰国を考えてくれるのかと訴えたのも無理はない。

 このような情勢の中でも、次のような動きがあった。

   先に触れた昭和二十七年参議院議員高良とみのハバロフスク収容所訪問

   昭和二十八年、日本人をシベリア強制労働に駆りたてた最高責任者、スターリンの死、

   昭和三十年九月、社会党議員団のハバロフスク収容所訪問

   昭和三十年、鳩山内閣が誕生し、日ソ交渉が始まる。(昭和三十年から三十一年にかけて)

 このような世界の流れの中で、ハバロフスク強制収容所では、人々の忍耐が限界に達しつつあった。特に深刻なことは日本人の健康状態の悪化であった。

 (4)忍耐の限界をこえて事件は起こった。

 昭和三十年の秋に入るころ、この状態は一層進み、病人が多発するようになった。これに対し、収容所側は何ら適切な対応をしない。

 ソ連の原則は、「政治が全てに優先する」である。人の生命にかかわる医療のことも例外ではない。だから、政策で、入院患者は全体の二パーセント以内というようなことが行なわれ、それを越えることになれば、入院することも許されない。仕事を休むことも認められない。

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州も山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月18日 (日)

『上州の山河と共に』連載61回

それでも、中村塾の卒業生たちは、自分たちが主役となって頑張ってゆこうという気になってくれて、それぞれの立場で、自分の仲間に呼びかけ、支援者の輪を拡げる為に大いに活躍してくれた。

 他の団体についても同じような現象が見られた。これらの団体にも選挙運動の経験者はやはりほとんどいない。また、地域社会のボスであるとか、企業の経営者とか、上から権力を振るうような人もいない。だから、皆平等であり、また、それぞれが運動の主役であるという意識を持つことができたのである。

会議を、重ねるうちに、皆、次第にのめり込んできて、会議の場は、熱気に包まれるようになっていった。

<たかが素人の寄せ集め、大したことは出来ないだろう>

 世間ではこう噂しているということが、私の耳に入った。

 そんなことはない、我が陣営は、未経験者の集まりで、しっかりした組織になっていない点を指摘してそう言うのだろうが、組織があればそれだけで大きな力が出せるとは限らない、と私は思った。組織は古くなると形式的となり、硬直するものだと思う。また、階級的な秩序も、時には内部の力を外に出せず、逆に押さえ込む作用を果たす場合もある。幕末の頃、高杉晋作の奇兵隊が、幕府の正規軍に対抗して大きな力を発揮したのも、一人一人がやる気を起こして、新鮮なパワーを爆発させたからではないか。

 こう考えると、私の各種部隊も、この奇兵隊のように、新鮮な大きなパワーを発揮してくれるように思えるのだった。だから、これからも、私自身が直接出会う人達の中からグループをつくる、あるいは、そういう人からその仲間に呼びかけてもらって、五人でも十人でも良いから、小さいグループを作ってもらう、これが、この時点での私の作戦としては最良のものと思えたのであった。

水洋会の結成

 中村塾卒業生や私のいくつかの同級生などのグループは、もともと私と関係があった人々が構成員となっている。こういうグループだけでは発展性がない。新しく開拓した人々から成る団体を作ってゆかねば成らない。私の運動が幾分進展し、新たな段階に入ったと意識した頃から、この事は大きな課題となっていた。

 それは、始め、数人の会合から始まった。そこでは、どうしたら形のある会をつくることができるか、また、どのような方法で仲間を増やしてゆけるかということが真剣に話し合われた。そこで得られた一つの結論は、とにかく、毎週水曜日の夜、それぞれの仕事が終わってから会合を開こう、その時は、各自が新しい仲間を誘って参加しよう、そして、その次の週には、前回初めて参加してくれた人にも、更にその知人、友人を誘って参加してもらおう、こうして、会合を重ねるごとに新しい仲間を増やしてゆこう、ということであった。

 第一回の拡大会議は、大変な努力をした結果、30名程の参加者が得られた。

 この会議を成功させる為に、妻も必死だった。実は、妻はこの頃、まだ教師として勤務していたが、家に帰ると熱心な事務員に変身し、資料の整備や手紙の宛て名書き、あるいは、昔の教え子に対する電話連絡などを進めていた。

 このような仕事を、妻は、私が運動を始めた当初から熱心にやっており、私を支える陰の柱であった。そして、事務所で毎週大勢の会議を開くとなると、私の訪問者リストに載っている人に電話で参加依頼したり、仲間に対する呼びかけを引き受けている人に確認を求めたり、あるいは、これら参加予定者の人数を掌握したりで、妻の仕事はにわかに忙しくなった。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月17日 (土)

『上州の山河と共に』連載60回

 三人寄れば文殊の知恵というが、何人かが集まって会議を開くと、いろいろな良いアイディアが飛び出すし、また、意見をたたかわす中で、同志的な心の連帯が生まれてくるのだった。

 このことは一つの重要な発見であった。今まで一人でこつこつと歩き回って知り合った人達の中からグループを作ることができれば、そこからは、一プラス一は二以上の新しいエネルギーが生まれるに違いないと思われた。一つの体験から新しい理論が生まれ、それに基づいて、また、新しい行動が展開していくのだと気付くと、手探りでやってきた闇の中に一条の光を見つけた思いがするのだった。

 振り返れば、運動を始めてからすでに半年以上がすぎていた。もう、私一人で行動している段階ではない。自分一人の力は微々たるものである。これからは、如何に多くの人に協力してもらえるかに、この運動の成否がかかっている。こう考えると、私の運動も新たな段階に進むべき時に来ているように思われた。

 これからは、このプレハブ小屋を拠点として、出来るだけ回数多く会議を開くことにしよう、そして、これと並行して、従来のように、私自身が出かけて行って直接会うという作戦を続け、その中で、会議に出てくれる人を探してゆこう、私はこのように考えをめぐらせながら、新たな作戦に進む決意を固めていった。

 プレハブ小屋での会合は、中村塾の卒業生、妻の教え子、私の中学時代の同級生、宮城村時代の同級生、そして、定時制高校時代の同級生、といった順で開いていった。

 会議に参加するものは、ほとんど選挙に関しては素人であった。だから、具体的にどうやって運動を進めたらよいか分からない。

 中村塾卒業生たちの会合でのこと。

「先生、公職選挙法というのがあって、やたら選挙活動をするのはやばいって、おやじに言われてきたけど、大丈夫なんですか」

 もう二十五、六歳になっている筈のKが言った。

「うん、確かに公職選挙法では、選挙運動が出来る時期は決められていて、それ以外は出来ない。しかし、今我々がやっているのは、選挙運動ではない。中村のりお後援会活動なんだ。我々国民には、憲法で保障された政治活動権利があるんだ。そういう風に理解してくれないか」

「へえー、そんな、分かったような分からないような事言ってたんでは、ピンとこないぜ、先生。俺の仲間なんか、みな、選挙になんか行ったことがない者ばかりだ。俺が、先生に投票してくれって頼めば、みんな、投票するぜ。後援会に入ってくれなんていう言い方じゃ説得力がねえよなあ」

「馬鹿だなあ、お前、そんなこと、頭で考えて、適当にやれよ」

 Kの同級生Yの言葉である。

 こんな具合であるから、民主主義社会における選挙の意義というようなことから始めて、公選法の説明まで詳しく話そうとすると、

「まるで、昔の中村塾みてえじゃねえか。先生、俺達、月謝払わねえんだから、あんまり細かく教えてくんなくもいいよ」

 誰かが言って、みんながどっと笑った。

★土・日・祝日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月16日 (金)

「シベリアのサムライたち」(第5回)

◆告示に向けて一日が矢のように速い。体力と気力の限界を感じる時、シベリアのサムライの姿は大きな勇気を与えてくれる。

◆ハバロフスク事件に関わった人々は、ほとんどが旧制中学以上の学歴を持つ。反ソ行為などの理由で懲役25年などの判決を受けた。知と勇気を備えた人々の先頭に立ったのは元陸軍少佐石田三郎だった。かつて、天皇の兵士として戦った人々は今や新たな敵に向って立ち上がった。当時の国際情勢は・・・

「シベリアのサムライたち」(第5回)

昭和二十二年、私は、宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法が、この年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。

    おはなをかざる

 

みんないいこ。

きれいなことば

みんないいこ。

なかよしこよし

みんないいこ。

 教科書の最初は、この詩で始まった。私たちは、このように教科書の一頁から民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上からにわか作りの「民主教育」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そして、上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。

 日本は、敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で、占領政策が行なわれていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

 昭和二十六年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。

 この条約締結については、国内世論は二つに別れて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月15日 (木)

シベリアのサムライたち(第4回)

シベリアのサムライたち

 

シベリアに強制抑留された人々の中には、日本人以外の外国人も多かった。彼らは、日本人が帰国したい一心で、ソ連当局に、こびたりへつらったりする姿を冷ややかに見ていた。その評価を一変させたのがハバロフスク事件であった。知識層の集まりである日本人集団は考え抜いた作戦の下で一糸乱れぬ闘いを繰り広げたのである。彼らの姿は、困難に直面した私たちに、今でも大きな勇気を与えてくれる。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実。」(第4回)

監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機に登り自殺を図る。

起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて、「海行かば水漬屍(みずくかばね)、山行かば草生(くさむ)す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間がかけ上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰の部分で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、既に科されていた二十五年の刑に加えて、十年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説「不毛地帯」の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は、腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いて下さい」と云い、直立不動の姿勢で、“海行かば”の歌を歌う。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻(ひるがえ)して二十メートルの地上に飛び降り死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌を歌い終わった後、死を思い止めたのであった。

 この事件は、昭和三十年六月のことでハバロフスク事件は、この数ヵ月後、同年十二月に起きる。際だって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な反抗は、各地の収容所であったらしい。

(3)日本と世界の情勢はどうであったか。

 昭和二十年八月の敗戦後、日本国内では、新憲法の下、瓦礫の中からの復興が進んでいた。生活は苦しくも、家族の絆は強く、人々は逞(たくま)しく真剣に生きていた。

 私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の山奥で開墾生活に入ったのは、この昭和二十年の秋、私が五歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野生のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、この頃、ソ連も、戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。

ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが、収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月14日 (水)

シベリアのサムライたち(第3回)

平成16年に抑留体験者2人とハバロフスクを訪ねたときの出来事は忘れられない。青柳由造さんは突然の体調不良で倒れ、医師を呼んで騒ぎになった。もうろうとした意識の底で、由造さんは、「また、帰国できなくなる」と怯えたという。由造さんは約2年で帰国したが、ハバロフスク事件の人々は、10年を超える抑留に耐えた。闘った人たちを支えたものはサムライの精神であった。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」(第3回)

事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食料のひどさ、そして、病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食料については、まず与えられるカロリー数が少ないこと。旧日本軍は、重労働に要するカロリーを一日、3800カロリーと規定していたが、収容所ではやっと2800カロリーであった。又、生野菜が極度に不足しているためビタミン摂取が出来ないのが痛手であった。日本人の食生活の基本は、本来、肉食ではなく、米や野菜である。従って、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜がとれないシベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬期、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。

(2)ハバロフスク事件の前兆としての出来ごと

 ソ連の態度は、威圧的で情け容赦がなかった。「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は、敗者で、囚人だ」と、何かにつけ怒鳴った。日本人抑留者は、この言葉に怒りと屈辱感をたぎらせていた。あのように言っているが、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされ、満州では、実際戦える戦力はなかったのだ。そこへ入ってきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑しい(いやしい)見下げ果てた人間ではないか。人々は、皆、こう思いつつ、帰国という一縷の望みを支えに耐えていた。ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追いつめていた。それを物語る出来事が、”ハバロフスク事件“の前に起きた。

 監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保官将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。ある時、彼は零下三十度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を営倉処分にしたのである。一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で傷害を加えたのである。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月13日 (火)

シベリアのサムライたち(第2回)

妹弟たちと夕食会。長く選挙をやると肉親に苦しい思いをさせる。胸にあるものを語り合い熱い血を確認した。県議選が秒読みに。苦しい時はシベリアを、の思いで始めた連載の第2回。以前、拙著を読んで手紙をくれた永田潔氏は、私が描くハバロフクス事件の渦中にいた。ロシヤ語の達人で旧陸軍特務機関の威力謀略隊にいたという。氏は、「よくまとめられた、それも正確に。全く敬服、感服致しました」と評してくれた。

日本人が最後に意地をを見せたハバロフスク事件の真実

(第2回) 

ハバロフスク事件の発生は、昭和三十年の暮である。日本人抑留者のほとんどは、昭和二十五年の前半までに帰国したが、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和二十五年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和二十三年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著「雁はゆく」の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係した者ばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる。」

 塩原さん達の帰国後も、この収容所の日本人達の苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和二十七年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和二十八年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような状勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によって、その多くは、刑期二十五年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな、非常に衰えていた。それにもかかわらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。ハバロフスク事件は、収容所側の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月12日 (月)

シベリアのサムライたち

県議選突入が秒読みの段階に至りました。取り組まなければならない多くの課題を前に、私の胸の不安と緊張は日毎に高まっています。ここで、私は心の支えとして、拙著「望郷の叫び」の中の「シベリヤの侍たち」をかみ締めることにしました。読者の皆様にも是非紹介したいと思い、月曜から金曜まで連載します。サムライの意地と誇りと覚悟の程に皆さんと共に接したいと存じます

       

     日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実。 

(第1回)                  

シベリア強制抑留の真実を語る上で、ハバロフスク事件に触れないわけにはいかない。それは、奴隷のように扱われていた日本人が意地を見せた見事な闘いだったからだ。又、日本人とは何かを知る上でも重要だからである。最近、ロシア人の日本人研究者が、この事件を、「シベリアのサムライたち」と題して論文を書いた。「サムライ」とは、私たちが忘れていた懐かしい言葉である。この事件を知って、私は日本人としてよくぞやってくれたと、胸の高鳴りを覚えるのである。

昭和三十一年八月十六日の産経時事は、「帰ってくる二つの対立―興安丸に反ソ派とシベリア天皇―」という記事を載せた。それによると、帰国船内又は舞鶴で乱闘騒ぎやつるし上げなどの不祥事が起こる可能性が強いこと、二つの対立グループには、一方の反ソグループにハバロフスク事件の黒幕的な存在として知られる元陸軍中佐瀬島龍三、他方親ソ派のシベリアの天皇として恐れられた浅原正基のことが記され、又、帰還促進会事務局長談として、「浅原のように日本人を売った奴は生かしてはおけないといっている、帰還者がいるから、何が起こるか心配している」という記事が載せられている。

 またこの記事は、問題のハバロフスク事件については、「ソ連の待遇に不満を抱き、昨年十二月十九日の請願サボタージュで、犯行の口火を切ったハバロフスク事件は、去る三月、ハンストにまで及んだものの、ソ連の武力鎮圧により、同十一日はかなく終幕、四十二名の日本人が首謀者としていずれかへ連行され、一時、その消息を絶った」と報じている。事件からおよそ半世紀が経つ。この事件の重大性にもかかわらず、今日の日本人の多くは、この事件を知らない。

(1)ハバロフスク事件の背景

 ハバロフスクは、ロシア極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川の合流地点に位置し、シベリア鉄道の要衝である。強制抑留のシンボル的な都市で、多くの日本人は、ここを通って各地の収容所へ送り込まれ、帰国するときも、ここに集められてからナホトカ港に送られた。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月11日 (日)

『上州の山河と共に』連載59回「出馬を決意」

S氏は約束を守り、その後、私の運動が展開してゆくなかで、時々、重要なアドバイスをしてくれたし、又、自分の人脈の中で、信頼できる人を次々と紹介してくれた。

 S氏の助言で、特に印象に残っていることがある。それは、地元、芳賀で後援会がなかなかできないという私の悩みに対するものだった。S氏の考えは、地元は、時期が来れば必ずそれなりにまとまりができる。周辺に支援者を増やしてゆけば、それが地元に良い影響を及ぼしてゆくだろうというものであった。そして、その後の展開は、大筋として、彼の言った通りになっていった。S氏との間に培われた友情は、今でも変わることがない。

 S氏のように、他の政治家との繋がりを気にして、表に出たがらない人が意外に多いことに初めは驚いたが、考えてみれば、既に秩序ができているところに、新人が割り込んでゆくのであるから、これは当たり前のことであった。

 S氏のように、名乗り出てくれて、私と直接の関係を持ってくれる人は、その後も、徐々に増えていった。私は、戦いの時までには、まだ時間がある。今は、点を重視した作戦を続けていこう、いつかはそれが線となり、さらに面となる時期が来るだろうと考え、少しずつ現われる運動の効果に励まされながら、足で稼ぐ作戦を続けていった。

 福島浩、芝基紘そして町田氏とは、一ヶ月に一回位会って、私の運動の状況を聞いてもらい、また、お互いの情報交換をしていた。

 私が運動を開始して三ヶ月程の時点で、彼らに報告した感想は次のようなものであった。前橋市を地域別に見ると、現職の県議のいる農村部は中々入り込めない。このような地域は、親戚関係や同窓生の関係など特別なルートを頼らないとつながりが作れない。これに対して市街地や進行住宅地は、ほとんどが固まっていないと言ってよい状態である。そして、年齢の関係では、30年代半ば位までは、圧倒的に無関心層であり、投票所へ行ったこともない人が非常に多い。また、作戦の面では、現職と四つに組んで同じような戦い方をしたのでは勝ち目がなく、従来の政治家が対象にしなかった、あるいは、対象にできなかったと言うべきかもしれない層に直接働きかけることが非常に有効である。だから、現在、私がこつこつと直接に尋ねて歩いていることは、的を得た作戦だと思う。これは、小さな種を蒔いて歩いているようなもので、きっと芽が出るに違いない。ざっと以上のようなことであった。

それにしても、そろそろ支援者が会合を持てる拠点が必要だということになり、手分けしてプレハブの古いやつをやっと見つけ、私の家の近くの空き地を借りて、みすぼらしい、小さな後援会事務所が建てられることになった。

 後援事務所ができてみると、新たな感慨が湧いてくる。それは、ちっぽけで、みすぼらしいながら、一つの城であった。私は、事務所の窓から前橋を見下ろして、少年の頃親しんだ太閤記や三国志の世界を思い浮かべていた。よし、孫子の兵法で、一つ、あの市街地へ攻め込んでゆこう。私の心は、少年のように熱く燃えるのであった。

 十坪ちょっとのプレハブ小屋ではあるが、そこには、ゼロから出発した私達が会議を開き、知恵を出し合い、そして、秘策を練るにはふさわしい空間であった。

★土・日・祝日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月10日 (土)

『上州の山河と共に』連載58回「出馬を決意」

このような作業をしていた当時、肝心な、芳賀地区では、私の存在は、まだ全く認知されない状態であった。このことは、実に淋しいことであったが、芳賀へ移り住んで日も浅い上に、PTAや自治会などの役員すらしたことがなく、知名度がゼロに近い状態であることを考えれば、当然のことであった。

 このような運動を始めてから二ヶ月程経った頃から、支援の手紙や電話が時々寄せられるようになった。

 ある晩のことである。電話が鳴って、受話器を取ると、

「私は、Sという者ですが、あなた、今日、私の家を訪ねてくれましたね。今、あなたのパンフレットを読んだところです。家内から話を聞いて、あなたに、大変興味を持ったんですが、あなた、本気でやり抜く考えですか」

「もちろんです。命がけでやり通す決意です」

「なるほど。それで成算はおありですか」

 私は、ずい分、ずけずけと物を言う人だなと思った。しかし、声の感じからして、これは、冷やかしているのではない、力を貸してもらえる人かもしれないと直感したので、私は真剣に答えた。

「成算と言われても困りますが、道が必ず開けると信じています。私がお会いすると、皆さん、大変関心を示してくれます。まだ、十分なご理解を頂くまでに至っていませんが、皆さん、私のことを、本物かどうか、眉に唾して見てくれている、という状態かと思います。私としては、いろいろな方に直接お会いしてお話できることが大変貴重な勉強になっています。こういう形で、有権者に訴えてゆくことが、本当の民主主義を実現してゆく道なのだと思っています。これは、実際に、運動をやってみて、はじめて実感できたことで、素晴しいことだと気付いたんです。

 だから、私は、自分の歩いている道は、民主主義の理念にかなったもので、きっと目的地に通じていると信じているんです。一人一人のひとを頼りにしてやっているんです。どうか応援して下さい」

 私は、顔の見えない相手に対して一気に話した。

「私は、いままで、いろいろな選挙にかかわってきたが、もう選挙は飽きた、というより嫌になっていたんです。もう二度と選挙はしたくないと思っていたところに、あなたの話を聞いて、若い頃、理想に燃えて飛び廻っていた頃のことを、今、懐かしく思い出していました。あなたに会って見て、もう一度よく話を聞いて、できたら、応援したい気持ちになってきました。」

「ありがとうございます。是非、会って私の話を聞いて下さい。」

 私は、声の主にすぐにでも会いたい気持ちであった。そして、このような電話をくれる人が出てきたことは、この運動が、自分の知らない所でも反応を引き起こしている証拠だと思えて嬉しかった。

 23日後、私は、打ち合わせをしておいて、S氏に会った。S氏は、60に手が届くほどの、がっしりした体格の立派な人物であった。彼は、今まで、様々な選挙に関わってきて、現在も、何人かの政治家とつながりをもっているので、名前を表に出すわけにはいかないが、今までの経験を生かして、力いっぱい応援すると約束してくれた。

★土・日・祝日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 9日 (金)

「2月議会が終る、選挙戦が本格化する」

 2月議会は9日に閉会となる。いろいろな意味で、後々、振り返って話題となるであろう議会だったと思う。一つの特色は、この議会を最後に退任する議員が多いことである。

◇最も注目されるのは、松沢睦議員が9期勤めて退任される事である。松沢時代が終るという感を抱く。哲学と信念を持ち県議会の中心的存在で、その政治手腕と指導力は抜群であった。もう一期やるかと思っていたら、ある時、突然退任を表明して私たちを驚かせた。その後の行動も従来と変わるところがなく毅然とした姿を貫いていたことは、政治家の引き際として学ぶところがあると思った。

◇次に、大林喬任議員が今期中急逝した。この人もしっかりとした政治哲学を持った人であった。その他、退任する議員は角田登氏、矢口昇氏、長崎博幸氏、そして、知事選出馬のために退任する大沢正明氏、館林市長選出馬の安楽岡一雄氏、桐生市長選出馬の亀山豊文氏、その他にも退任の噂がある長老議員がいる。

 これだけ多くの議員が一度に退任することは珍しい。このことは、今後の県議会にとってどのような意味を持つのかを考えねばならない。地方分権が進み、また、様々な難問が山積みする本県において、県議会の役割がますます大きくなる時である。県議会が弱体化して、その役割を発揮できないようであってはならない。間もなく迎える県議選は、新たな使命を担った議会をつくるという意味でも重要である。

◇県議選の説明会が市町村会館で行なわれ、後援会の幹部二人が出かけた。説明を聞いてきた幹部が、供託金がいくら、ポスターが何百枚というようなことを話していた。今月30日、告示の朝、掲示板の自分の番号が抽選で決まると、市役所から選挙事務所に伝えられ、運動員は、ポスターを貼るために、一斉に各地に向けて走る。幾度となく繰り返された光景である。今度は、選挙区の広さが2倍以上になりポスターの数も格段に多い。ポスターの裏に両面テープを貼って備えなければならない。正に戦いの時が近づいてきた。

◇夜、県政報告会を終えて事務所に戻ると、私の机の上に、パソコンから取り出された一枚のメールが置かれていた。

 件名は、「お久しぶりでございます」。「中村先生、偶然、先生のホームページを拝見致しました。35年程前に先生の学習塾で教えて頂きました」と始まり、現在は医師である御主人と東京に住んでいること、私の重粒子線の日記を読んだが、これを進めている群大の教授は御主人の友人であること、そして、塾で机を並べていたN君の死、幼かった娘のゆりのことなどが綴られている。勉強が出来て可愛い子だったS子さん。あの頃の寺子屋の光景が甦り心に力が湧くのを覚えた。「いつか再会したいですね。御主人に宜しく」

(県議会の来期の発展を願って。読者に感謝)

★土・日・祭日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年3月 8日 (木)

「特別委員会の私の質問」

◇決算・行財政特別委員会である。決算の仕事は既に終わっているので、この日は、行財政関係の審議が行なわれた。

 行政改革というとコストの削減を目的とした改革だと思う人が多いが、コストの削減だけでなくサービスの向上も目的とする。つまり、よりよい行政の型を求める改革である。

 私は、これ迄、アウトソーシング、つまり民間への外部委託について発言をしてきた。指定管理者制度もその一つ。外部委託は、今、行政改革の目玉である。

 民間が出来ることは民間に任せる、そのことによって行政は身軽になって本来の職務に全力を尽くし、かつ、公務員を減らすことが出来る、本県の行政改革は、このような流れに沿って進められている。

 私の質問は、この外部委託を新たな視点から見詰めようとする考えに基づいて行なわれた。つまり、「外部委託は、その仕事を任せるに最もふさわしい人に任されているか」というもの。そして、提言した。それは、外部委託する全ての業種の目的と内容を調べ、最もふさわしい担い手を捜す、その方法としては、委託する業種を公開し、多くの県民から提案を募集して、その中から担い手を選ぶ、というもの。

「そういうシステムをつくるべきだと思うがどうか」私の質問に対して当局は検討したいと答えた。

◇公共料金を3年ごとに見直して上げていくことに対して質問がなされた。例として公立高校の授業料の値上げが上げられた。文教常任委員会の質問を行政改革の視点から問うものであった。

◇この日の行財政改革特別委員会では、県議と執行部職員の選任の挨拶が行われた。議員で退任する人は、角田登、矢口昇、長崎博幸の各氏、職員の側は、加藤総務担当理事、佐藤県民センター所長である。議員の退任については、県議会が大きく様がわりすることを感じさせられた。間もなく来る県議選の結果として退任を余義なくさせられる人のことを思うとなおさらであった。それは他人事ではない。必死で頑張らねばならない。私は退任する人々の弁を聞きながら思った。

◇県政報告会で、夕張市のことを聞かれた。「もう市議会はいらねえ、市会議員もいらねえ、という市民の声が新聞で紹介されていたが、市議会の責任とは何ですか」というもの。

 夕張市は借金がふくらんで遂に破綻となったが、無理な予算、巨額な赤字を見抜けなかった市議会の責任が問われている、議会の役割は、行政をチェックすることだが、全国ほとんどの議会は、十分にそれを果たせないのが現状だと私は説明した。このことは、本県県議会でも同じで、県議会は更に改革を進め、自らの力をつけ、チェック機能を果たさねばならない。

(県民の行政改革への理解が深まることを願って。読者に感謝。)

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 7日 (水)

教育関係の常任委員会の熱い議論

◇「教育の日」が遂に実現する。平成15年2月の議会で、私が紹介議員となって出された「教育の日」制定に関する請願が趣旨採択されてから、ここに至る道のりは決して平坦ではなかった。議会内でも理解者が少なく、教育委員会の中から機が熟していないという声が聞かれた。当時の自民党執行部の「中村さんだけが突出している」という発言が耳にこびりついていた。

 今日の山積する深刻な教育の問題を解決するためには、社会全体が教育に目を向け力を合わせなければならない。教育の日を設ける目的はそこにある。難産の末に生れた子を大事に育てなければならない。来期は、そのために最善を尽くす決意である。

 「ぐんま教育の日」は、11月1日を当てる予定である。この日は、昭和23年、教育委員会制度がスタートした日である。教育委員会の存在意義が問われている現在、教育委員会に関して、我が県の意志を表わすためにも、適切な日の選定ではないかと思う。

◇実は、この日の私の最初の発言は、教育委員会委員長に対する次のような質問であった。

 「今、中央では、教育委員会不要論まで飛び出している。教育委員会の意義についてどのように考えておられるか」

 委員長の型どおりの答えに続けて私は自分の考えを述べた。

「教育は地方の特色にもとづいて、地方が力を合わせなければ、何も解決することは出来ません。教育における地方の自主性、つまり教育の地方分権が今一番求められています。そのために中心となって頑張ることが教育委員会の役割であります。私も皆さんと力を合わせて頑張りたいと思います。」

 私の発言は、教育について、県民が力を合わせるために「教育の日」を設ける意義があること、そして、そのために教育委員会は役割を果たすべきだということにつなげた。

◇高校の授業料を300円値上げするという条例案が委員会で否決された。本会議で「その必要があるのか」と問われ、教育長はきちんと答弁しなかった。「何に使うのか」と聞かれ、「せっかくだから図書購入費に使う」と答えていた。「あとは常任委員会で審議して欲しい」と本会議の質問者は発言していたのである。授業料を払うのが苦しい家庭も多いとき、時期が来たから上げるというのは理由にならないとして否決したのである。

◇「いじめとはこうだと定義することは必要ではないか」、私は再度質問した。教育長はくり返しいじめの定義は意味がないと発言している。くり返しいじめをする児童・生徒を厳しく指導するとき、基準がなければ、いじめに当る当らないというトラブルが起きてしまう。この日も、教育長の答弁は理解出来なかった。

◇学力テストの実施は学校間の競争をあおることになるし、個人の情報がもれるのではないかと問われた。(地域の教育力が向上することを願って。読者に感謝。)

★土・日・祝日は、以前からの御要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 6日 (火)

「常任委員会が開かれる。私は、文教警察の委員会。」(5日)

 以前は、文教治安常任委員会と称したが、今は、「治安」を「警察」に改めて、文教警察常任委員会となった。この日は、警察関係の審議が行なわれた。

 一つの重要な条例案が審議された。それは、群馬県留置施設視察委員会条例である。条例の名称が示すように、この条例は、留置施設を視察する委員会の組織と運営に関する事を定めるもの。

 委員会の定数は4人である。どういう人が委員になるのかという質問に対し、弁護士、行政関係、民間の有識者などが選ばれると警察当局は答えた。

 この条例の目的は、留置された人の人権を守るためと、適切な処遇を実現することである。そのために、委員は留置施設を視察し透明性を高める努力をするのである。

 従来、どのような問題点があったかとういうと、警察に逮捕された被疑者は、裁判で判決が下される迄の間、警察の留置場に拘束されるが、その人権が侵害されるおそれがあることが指摘されていたのである。何人も裁判で有罪が確定する迄は、憲法上無罪と推定されるのに、留置場では有罪の人のように扱われると批判されてきた。この点を改善しようとすることが条例の目的である。

◇この日、私は、犯罪の発生が大幅に減った原因の一つに、犯罪防止推進条例の実施がある。だから、これからも、本県の犯罪の総量をさらに減らすために、この条例を一層生かす工夫をすべきだと主張して当局の考えをただした。

また、本県の犯罪状況の中で少年犯罪の深刻さが指摘されるが、これに関する重要な課題として、この議会で議決される見通しの青少年健全育成条例の運用があり、そのために警察の役割は非常に重要であるとして、警察の考えをただした。

先日の「日記」で触れたように、この条例では罰則のともなう多くの規程が設けられた。そこでは、警察の適切な対応が期待され、この条例が成果を上げることが出来るか否かは、このことにかかっているといえるのである。

 犯罪の防止と青年の健全な育成は、私たちにとって最大の課題であり、それは、犯罪防止推進条例と青年健全育成条例をいかに生かすかにかかっている。一般県民と共に関心を深めていきたい。

◇振り込め詐欺が一向に減らない。本県の被害総額は、平成16年4億6千万円、平成17年、4億7千万円、平成18年、5億7千万円と年を追って増えている。全国では平成18年約249億9千万円であった。いくつかの手口も紹介されたが、あきれるばかりだ。

◇警察関係でも団魂の世代の退職は深刻である。今後10年間で1500名の退職が見込まれる。治安で空白を作ってはならない。警察は、去り行くベテランから若手に体験や技術を伝えるマイスター制度を実施しようとしている。

(本県の犯罪が真に減少することを願って。読者に感謝)

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 5日 (月)

「チュックボウル・柔道・書道展」(4日)

忙しい中にいくつものイベントがあった。まず、ぐんまアリーナで、2つの大きなスポーツの大会。チュックボウルの日本選手権大会は午前9時に開会式。私は群馬県の会長であったが、最近、全日本の会長になった。ハンドボウルから発展したこの新しいスポーツをまだ知らない人も多い。スイスが発祥の地らしいがアジアでは台湾で盛ん、そして日本では群馬県が中心なのだ。私は、会長として、皆さんと力を合わせて、このスポーツを発展させたい、と挨拶した。

◇10時、関東柔道選手権大会、関東女子柔道選手権大会が、アリーナの武道館で行なわれた。私は県柔道連盟顧問である。大会会長に続いて挨拶した。その要旨は次の通りである。「今や柔道は、世界のスポーツになりました。しかし、柔道は、日本の文化であり、日本人の精神を支えるスポーツであります。日本の柔道であることを守りながら、世界に広めることが大切であり、そのことが世界の文化に日本の文化が貢献することになります。本日の大会も、日本の柔道を守り発展させるための重要な大会であります。また、日本選手権の予選を兼ねた大会でもありますので、日頃の成果を生かして頑張って下さい」

柔道が世界に広まるにつれ、あまりの勝敗にこだわるせこいスポーツになることを心配する気持が私の心にあった。

◇高崎ビユーホテルの書道三十人展祝賀会に出る。私は、県書道協会の顧問である。この日は、二つの「道」がつく行事に出たが、道とは、一筋の道とか道を極めるという風に使われ、心の働きと深く結びついた意味をもつ。他にも、茶道、花道、弓道、剣道など、いろいろあるが、みな、日本の伝統の精神文化である。このような日頃の意識を念頭に、私は登壇し挨拶した。

◇「群馬県の書道の中核を担う皆様の御活躍に心から敬意を表します。今日、日本人の心は貧しくなったといわれる中、伝統の精神文化である書道の果たす役割は重要です。書には長い歴史があって、優れた書に接すると、その人の人格が伝わってきます」

 私の頭には、平安時代の空海や、幕末の山岡鉄舟、髙橋泥舟、勝海舟等の書を見たときの感動が甦っていた。

「世の中が、ますます便利になり、自分の手で字を書く必要が少なくなってきましたが、こういう時こそ、書道を守り発展させる大きな意義があると思います」

◇教育にたずさわる人たちに、メッセージを添えて、県政報告の「教育特集」を送ることにした。メッセージでは、教育の再生は、教室の授業の充実にかかっている、そして、授業は教師の努力にかかっているのだから教師を温かさと厳しさで支えることが必要ではないか、そのために、学校、家庭、地域社会が力を合わせなければならない、と訴えた。(ぐんまの教育の真の再生を願って。読者に感謝)

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 4日 (日)

『上州の山河と共に』連載(57)「出馬を決意」

 私は、県民を代表して県議会で働く人間として、自分を売り込もうとしているのである。相手の奥さんが怪訝そうな顔をしているのは、それだけの商品価値があるかどうかを疑っているのだ。

 もし仮に、そういう商品価値があるかと聞かれたとすれば、私は、現在はまだその価値はないが、努力してその価値を身につけると答えるしかないと思った。そういう可能性を持った人間と信じて買って欲しい、と訴えているのである。このように考えると気が楽になり、訪問セールスもやや楽になったと感じられるようになった。

 現在、二期目の県議になって、この当時のことを時々振り返るが、様々な人に直接あって感じたこと、話したことの一つ一つが、貴重な体験として私の財産になっていると思うのである。

 また、時々、思わぬ所で、

「あの時、中村さんがうちを訪ねてくれたこと良く覚えているわよ」

などと言われることがよくある。

「夢中でした。自信がなく、おどおどしていたと思います」

「とても新鮮に映ったのよ。いきなり家に来て、県会の話をするからビックリしましたけどね。近所でも、すぐ話題になっていたわ」

 このような話を聞かされてみると、手探りで、進む方向もわからぬような状態でやったあの当時の私の運動も、なかなかの効果を産んでいたと思えるのである。

 話を元に戻すが、最初の頃の私の運動は、このように足で稼いで出来るだけ多くの人に接するという作戦が中心であったが、これと並行して、私の関係するいろいろな名簿に載っている人に対する手紙作戦も、重要な運動の一つであった。

 私の小学校、中学校、そして、高校の同級生、あるいは、中村塾の卒業生というようにグループごとに違う文面を作り、ハガキで訴えるという方法を採ることにした。

 作業に従事するスタッフは、私と妻ヒサ子、笠原久子さん、娘のゆり、そして、私の母の計5人であった。私が文面を作る。久子さんとヒサ子は手分けして清書したり、宛名書きをしたりする。そして、印刷には、市販されている簡単なプリントゴッコという道具を使った。一枚ずつ、ハガキをこの道具にセットして印刷するのがゆりの役目、印刷され、まだ乾かぬハガキを並べていくのが母の仕事であった。

 塾が終った後の教室は、一変して妙な作業場となった。

「まるでマニュファクチャーね」

プリントゴッコを操作しながらゆりが言った。

「ねぇ、県議選の準備を、こんな風にやっているって誰が思うかしら」

 黙々と筆を走らせていた妻が、顔を上げ子どものように瞳を輝かせて言った。

「これで本当に当選できたら、みんなビックリするわよね」

 こういいながらもゆりは、ちょっぴり不安そうである。

「ゆりちゃん、そんな言い方はダメ。当選したらではなく、当選させるのよ。絶対に」

久子さんの明るい声が夜の教室に響いた。

☆土・日・祝日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 3日 (土)

『上州の山河と共に』連載(56)「出馬を決意」

「なるほど。君の言うことは良く分かった。でも、大変な仕事に挑戦したものだね。そうだ今度、折を見て、町内の老人達に紹介してやろうか。そこで、今のような話をしてみてはどうかね。」

「ありがとうございます。是非、お願い致します。」

 思いがけない、有り難い老人の言葉であった。この時、私は初めて、小さな手応を得た思いがした。

 この老人は、その後しばらくして、実際に十人ほどの仲間を自宅に招き、紹介してくれたのである。初めての記念すべき座談会の実現であった。この時の老人たちの温かい心は、いつまでも忘れることが出来ない。そして、この時の体験にヒントを得た少人数の座談会の開催が、その後の私の重要な作戦の一つとなった点においても、この座談会は記念すべきものであった。

 運動を始めた最初の頃は、このような良い話にぶつかることは稀で、むしろ辛いことの連続であった。

 初めての家を訪問した時、よく聞かれることがあった。

「あんた、一人で廻っているの、案内をしてくれる人はいないの」

 通常、このような運動は、秘書や鞄持ちが一緒について歩くのが当然、と一般の人は思っているのである。

 また、

「何か組織はあるの。支持母体は何ですか」

こういう質問をよく受けた。

「組織はありません。これから支持者を捜し出して、お願いして作ってもらうんです」

 こう答えると、相手は、呆れたような、失望したような表情になる。

 こんな時、私も、心の片隅では、お供の一人か二人連れて歩けたら格好が良いだろうなという思いが湧くが、すぐにそれを打ち消して、<それでは、従来のタイプの政治家と同じではないか、俺は、お供を連れて歩けないが、これこそ、一般庶民であることの証なのだ。今に見ていろ、きっと多くの人が理解してくれる時が来る、その時まで頑張り抜くのだ>、と自分に言い聞かせるのだった。

 いろいろな家を尋ねる時、良く、玄関先に張ってあるセールスマンお断りのシールが目に入る。また、ブザーを押して、玄関の戸を開けたとたんに、

「間に合っていますよ」

 などと言われたりすることが度々ある。このようなことを経験する中で、私は、ある時、自分もセールスマンなのだと気付いた。考えてみれば、まさに自分を売り込もうと努力しているセールスマンなのである。

☆土・日・祝日は以前からのご要望により『上州の山河と共に』を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 2日 (金)

「青少年保護育成条例の全部が改正される」

 2月議会の第16号議案は群馬県青少年健全育成条例案だ。昭和36年制定の群馬県青少年保護育成条例が、名称もかえて(保護から健全に)前面改正される。青少年を囲む環境の現状を考えるとき、この改正は極めて重要で、今議会の最重要議案の一つだと思われる。今月9日に議決される見通しで、議決されれば、今年10月1日から施行される。主な点を紹介する。

先ず、青少年の健全な育成に関し、保護者、県民、事業者等の責務を定める。(例えば、第4条、保護者は青少年を健全に育成することが自らの責務であることを自覚し良好な環境の中で監護し、教育するよう努めなければならない)

◇酒・たばこの販売については、購入者の年齢を確認しなければならないとし、自販機で売る場合は、自販機を屋内その他適正な管理が行える場所に設置するよう努めなければならない。又、屋外に設置する販売は午前5時から午後11時半までとするよう努めなければならない。

◇保護者は、深夜に青少年のみで外出させないように努めなければならない。何人も深夜に青少年を連れ出し、同伴してはならない。何人も、個室で歌わせる営業、遊技をさせる営業、ボウリング、ビリヤード、ダーツを行わせる営業などの施設に深夜青少年を立ち入らせてはならない。

◇何人も、催眠、めいてい、興奮、幻覚等の作用を有する薬品を、不健全な目的で使用するおそれがあることを知って青少年に譲渡してはならない。

◇何人も、青少年に対してみだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない。

◇何人も、青少年に対し入れ墨を施し、又は入れ墨を強要、勧誘、あっせんしてははらない。 

◇何人も、青少年から使用済み下着等を買いうけてはならない。

◇何人も、青少年が次の行為を行う場所を提供してはならない。(みだらな性行為、大麻麻薬、覚せい剤を使用する行為、入れ墨を施す行為、とばく、薬品を不健全に使用する行為、喫煙又は飲酒)

◇保護者、又は、インターネットの端末設備を公衆の利用に共する者は、フイルタリングの機能を有するソフトウエアの活用その他適切な方法により青少年に閲覧させなければならない。

◇質屋は青少年から物品を質にとってはならない。古物商は、青少年から古物を買い受けてはならない。モーテル営業者は、青少年の健全な育成上必要な環境を阻害することのないよう、設置場所、建築物、看板類の意匠、形態等につき特別の配慮をしなければならない。ここでは、一部を紹介したが、青少年の深夜の連れ出し等は正当な理由がある場合は別であるし、保護者や業者の義務については、罰則の伴うものと伴わないものがある。

 この条例が施行されると青少年の育成に大きな影響をあたえると思われるがその成果は県民の自覚と協力にかかっている。

(青少年の健全な育成を願って。読者に感謝)

★土・日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 1日 (木)

「本会議一般質問のいくつかの論点」

◇一期の須藤日米代さんと九期の長老松沢議員がそれぞれ最後の一般質問をした。須藤さんは一期であるが今期で議会を去る。朝の議員総会では、緊張した面持ちで「どうなるか心配です。心臓の音を聞いてください」と言っていた。

 トップバッターで登壇すると、三人の子どもの母としての体験に基づいて、子育て支援や幼児教育について質問した。青のスーツに身を包んだ彼女の姿からは新鮮な緊張感が伝わってきた。終わると拍手が起き、議会席からよかったよ、という声が聞かれた。傍聴席には、多くの地元の女性が応援に駆けつけていた。

◇格差是正が議論された。

若者の3人に1人がパートなどの非正規社員である、格差是正のためにどのような考えをもっているか、という問いに、小寺知事は、「多くの非正規社員の存在が格差の原因

になっている。正社員と非正規社員の間に極端な格差が生じないように、労働局と一体となって、格差是正を進めたい」と答えていた。

 また、働く意欲を持つ中高年の格差対策について知事は、「定年を過ぎて働く場がないというのは、その人にとっても、社会にとってもよくないことだ。今日の社会を高齢社会に合うように切りかえて高齢者も働けるシステムにしていくことが必要だ」と答えた。

◇2月議会、最後の登壇は、今期限りで県会を去る松沢議員。傍聴席から、多くのカメラが松沢さんに向けられていた。松沢さんは、長い県政を振り返ってその間に生じた大きな変化を語り感想を知事に求めた。知事は、長く県政にたずさわり議論を闘わせた松沢さんが議会を去るのは淋しいと語った。そして、第一次産業が減って食糧自給率が減ったことdで将来が不安であること、50年前は貧しかったが皆が助け合ったのに、現在は助け合いが少なくなったと述べた。

議員席は、松沢さんと知事の激しいやりとりを期待しているのに時間はゆっくりと過ぎていく。私は、時間がなくなってしまうことが気になった。後半になっていくつかの松沢さんらしい鋭い発言があった。①アカデミー問題で何度も何度も同じ発言を繰り返すことに対して、何でそのようにこだわるのか、後藤さんの副知事問題のときとまったくおなじですよと指摘。②退職金を2億円ももらうことについて、それが報酬審議会の決定だとしても、もらうのは知事だ、その時、知事がどう決断するのか見守りたい。

③補助金をもらっている団体から推薦を受けるのはどういうものか。県政を選挙に使うのは良くない。推薦を断るべきだ、など。

 また、松沢さんは最後の一分間を切った時点で、最も重要なことを発言したと思う。

それは、いま述べてきたような問題点を踏まえ県政を刷新するために、我々は大沢議員を知事にするつもりだというもの。時間はなくなって手をあげた知事に反論の機会はなかった。私としては、60分をフルに使った激しく真剣な渡り合いが見たいと思った。

(2月議会の成果を願って。読者に感謝。)

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »