「教育再生は教室の再生にかかっている」
後をたたない、いじめ、自殺、異常な少年犯罪、そして叫ばれる学力の低下。これらに囲まれて、教育を立て直さないと日本は亡んでしまうと誰もが心配するのは当然だ。安倍政権が教育改革を最大の課題とするのも納得できる。しかし、教育は国の問題であると同時に、私たち地方の問題である。国は全国共通の方向性や原則を定める。地方は、地方の特色に基づいて具体的課題に取り組む。役割が違う、そして地方の役割は重い。
クリスマスのミサで、カトリック教会の神父が、「いじめは子どもたちの世界からなくならないものだ」といっていたのが印象的だった。その通りだと思うが、社会が変化し、又、子どもも変化したことから、いじめの意味が、昔と比べて大きく変わってしまった。昔の子どもはいじめられても死ななかったが、今の子はすぐ死を選ぶ。だから、いじめはなくさなければならない。なくすためには、いじめを止めない児童・生徒を厳しく指導しなければならない。
教育再生会議も、毅然たる指導や出席停止制度の活用などを提言している。いじめを毅然として指導する場合のポイントがいじめの定義である。指導は最終的には出席停止にまで到るのだから、指導に当たる教師によって、また、指導を受ける児童・生徒によって対応がことなるようでは、かえって混乱を生じ、マイナスの効果を生む。指導は、公平、公正でなければならない。
文科省は、いじめを幅広くとらえるために、この度、いじめの定義を変えた。それは、「その児童・生徒が、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」である。これまでの定義には、「一方的に」、「継続して」、「深刻な」という要素があったが、これらがあると、いじめに当たる場合を限定してしまうので削ったのである。県教育委員会は、いじめの定義は意味がないと言っているようだが、教室で規範を示し、正義を実現するためには、はっきりした定義が必要であることを認識すべきである。
◆教室の再生なくして教育の再生はない。そして教室の再生は、教師の力に大きく関わる。いじめをなくすことは、教室再生のカギであるから、教師はそのために指導力を発揮しなくてはならない。私たちは、教師が指導力を発揮できる条件を整えなければならない。それは、出席停止や教室の外に出すなど毅然とした態度を教師が胸を張ってとれる条件である。教師に力を与えても、社会の支えがなければ、教師はそれを生かすことが出来ない。県教委は教師を支えることを19年度の重要な課題としているが、私は、教室に正義と秩序をもたらすために、このことが必要だと考える。強い教師は、信頼され、尊敬される教師でなければならない。教室の再生のために、教師の適格性も強く求められている。(教室の再生を願って。読者に感謝)
★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。
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