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2007年2月 3日 (土)

『上州の山河と共に』連載47回 「大崎ヒサ子との出会い」

 私の大学卒業を涙を流して喜んだ父は、持病の心臓喘息からも開放されて、母と共に、弟賢三のもとで、しばらくは平穏な生活を送っていたが、60代の半ばを過ぎた頃、胃癌の手術を受けてから、めっきり体力が衰えて老け込んでしまった。そして、70歳を過ぎる頃になると、また、病気がちになって、入退院を繰り返していたが、昭和53年の夏、酷暑に耐えかねたように世を去った。

 父の葬式は、弟の所で行なわれたが、この葬儀の日、弟の二男で4歳になったばかりの巧(たくみ)が、葬儀の目前で、自動車事故にあって死亡するという出来事が起きた。

二重の不幸ということもあって、弟夫婦の落胆ぶりは見ていられない程であった。

 悪いことは重なるもので、それから程なくして、私の妻の発病そして死と、我が家の不幸が続くのであった。

 母は、この頃まだかくしゃくとしていたが、妻の発病を機に、私の所で家事のことやゆりの世話などをしてもらうことになった。母は、自分の夫の死、さらにそれに続く

孫の死の後遺症も癒えぬ間に、今度は嫁の病気、そして死とかかわることになって、さぞかし大変だったであろうが、ゆりにとっても、私にとっても、母の存在は大きな助けであった。

 妻の死後、母は、亡き妻に代わって家事やゆりの世話をこまごまとしてくれていたが、私たち親子にとって、心の支えとしての存在が何よりも有り難かった。

 しかし、元気であるとはいえ、年ごとに老いてゆく母に、いろいろと負担をかけることは、私にとって忍び難いことであった。

 ゆりは、早くも六年生になっていた。

 ある日のこと、母は集金に訪れた東和銀行(当時は、大生相互銀行)の社員の方に、息子の再婚相手に誰か良い人はいないかと話を切り出したらしい。そのような背景について知らない私の所に、ある日一枚の女性の写真と簡潔にきれいな字で書かれた経歴書が届けられた。

 女性の名は大崎ヒサ子であった。私は、その経歴書を見て非常に驚いた。それには、勢多郡宮城村の小学校、中学校を卒業し、その後、前橋女子高校、群馬大学へ進み、現在も宮城村鼻毛石に住んでいるとある。

 宮城村といえば、私にとって聞くのも懐かしい心のふるさとである。その昔、福島浩等と共に過ごしたあの山野、あの小学校で、この女性も育ったのかと思うと、それだけでも、親近感が湧く。

 そして、すぐ近くの桂萱中学校で英語教師として在職中という点については、さらに驚いた。(明日の日曜日に続きます)

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

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