『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(44)「再入院・別れ」
私は、一つ一つのドアを眺めながら思った。ドアの向こうでは、どのような人がどのような思いで病気と闘っているのだろうか。目前の死に直面している人もいるだろうが、その人は、どんな気持で死を迎えようとしているのか、また、その人を愛する者は、その傍らでどんな心を抱いているのだろうか。
私は、妻のことを想像しながら考えた。人にとって死ほど過酷なものはない。その死を、人は、果たして受け入れることが出来るだろうか。人は皆、死の重みに耐えられず、それに押し潰され、淋しさと悲しみにもがきながら消えてゆくのだろうか。
少なくとも、妻は、そうあって欲しくない。神を信じ、死を受け入れて行って欲しい。せめてクリスチャンとして全うして欲しい。そして、私自身も妻の死を受け入れなければならない時がついに来た。私は、こう思いながら廊下を引き返して部屋に入った。
次の日、妻は朝から目を醒まし、枕許に立てかけた聖書にぼんやりと視線を投げていた。それは、聖書を読んでいるというよりは、聖書を眺めて何かを考えている風であった。私は、ただ黙ってそれを見ていた。
妻は落ち着いていた。それは私の目には、既に死を乗り越えているように思えた。彼女の目は透明に澄んで、それは、全ての感情や執着を超越しているように見えた。
「あなた」
妻は、静かに顔を向けて言った。
「あの子は、神様のお恵みです。あの子が生まれたのも、私がこうなったのもみな神様の御意志なのです」
妻は、私を見詰め、諭すように、低いが確かな声で話し始めた。
「私の命は、もう長くはありません。そこであなたにお願いがあります。
あの子を立派な子に育てて下さい。思いやりのある優しい子、健康で心の広い子に、どうか育てて下さい」
私は、黙って頷いて、妻の手を取った。その上に涙が止めどなく流れ落ちる。
「あなた、私のことを悲しまないで下さい。私は天国に行くのです。その時期がほんの少し早いだけなのです。それが神様の御意志なのです。
神様が私を必要としてお召しになろうとしているのです。どうか、ゆりのことを頼みます」
「わかった。ゆりのことは心配しないでくれ。きっと、お前のように優しく思いやりのある、立派な女性に育てるから」
「ありがとう、それを聞いて安心して行けます。
私は、あなたの足手まといになってしまいました。ごめんなさい。あなた。これからは、あなたの新しい理想に向って生きて下さい。神様のご意志にかなうように生きて下さい」
妻の声は、次第に小さくなってきた。
「お前には、ずい分苦労を掛けた。すまなかった。俺は幸せだった。ありがとう。
お前には、いろいろ教えられた。お前に恥ずかしくないように立派に生きるから安心してくれ」
妻は、目を閉じたまま小さく頷くと、そのまま静かな眠りに落ちていった。その表情を見て、私は妻の死期が近いことを悟った。
★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。
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