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2007年1月20日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(43)「再入院・別れ」

ゆりは、母親の笑顔を見て安心したのと同時に気が弛んだらしく、目に一杯涙を溜めている。

「母さんね、重い病気をして、いろいろな事が分かったの。人間って体が弱くなると、今まで気づかなかった事がいろいろ見えてくるのよ。それを、忘れないうちに、ゆりちゃんに話したかったの」

 妻の声には、先程までとは別人のように張りがあった。目にも、力が蘇っている。

 肉体が殆ど駄目になっているのに、これだけの精神力がどこから湧いてくるのか、私には不思議に思えるのだった。

「人間にとって、一番大切なものは、優しい思いやりの心よ。母さん、病気の間辛かったけど、父さんやお前の温かい支えがあったから頑張ってこれた。母さんは本当に感謝しています。

 お前は、そういう心を貫ける人になっておくれ。その為に、正しい心と健康な体を持つように心がけるのよ。

 お前が神様に恥じない立派な人になるのを母さんは楽しみにしています」

 妻の声は次第に小さくなった。その張りつめた気力も限界に近づいたのだった。

 妻は話すのを止め、手を伸ばしてゆりの手を握った。その小さな手から伝わる温もりを確かめるように、又、その感触を自分の脳裏に刻み込もうとするかのように、娘の手を何度も何度もさすった。

 その表情は、この世に、こんなにも心の安らぎを与えてくれる温もりはないと感激しているように見えたのだった。

 妻の容態は、ゆりと会った後、更に悪化した。張りつめた緊張が弛んだ為か、その気力もまた著しく衰えてゆくようであった。

 それから、二,三日すると、食物が殆どのどを通らなくなった。腹水が一層溜まり、それは、外から見ても分かる程に腹がふくれてきた。最早、打つべき手は何もなかった。そして、更に三日程が過ぎた日の午後のこと、妻の下腹部からどす黒い汚物がどっと流れ出た。汚物は見る間に広がって、白いシーツを赤黒く染めた。そして、鼻を突く異臭が部屋に満ちた。

 看護婦たちが慌しく動き回る。妻は、意識を失ったかのように目を閉じて動かない。

 大量の汚物がはき出された為か、妻の腹のふくらみは幾分小さくなったように見える。そして、静かな寝息を立て始めた。

 その寝顔を見て、私は、妻の体が、今にも内側から、ぐずぐずと崩れてゆくのではないかという恐怖に襲われた。

 その晩、妻は、僅かに開けた口許から、ぜえぜえという苦しそうな息を漏らして、ほの暗い明かりの中に横たわっていた。唇はかさかさに乾いて、すっかり艶を失っている。頬の肉はますます落ちて、頬骨が皮膚を突き破りそうだ。私は、唇を噛んで窓の外を見た。そこには、黒い闇が深く静かに広がっている。何一つ聞こえない静かな夜である。闇を見詰めていると、その中に妻もろとも呑み込まれてしまうような恐怖心にかられる。

 私は、そっと廊下に出た。長い廊下は人影もなく、静かである。そこには、妻の部屋と同じような特別室が続く。私は、ふと足を止めた。耳を澄ますと、地の底から響くような低いうめき声が聞こえる。ここにも妻と同じような人がいるのか。私は足音を忍ばせてそこを離れた。廊下を進むと他の部屋からも、何とも形容し難いうめきが聞こえる。私は、長い廊下に目をやりながら、背筋が寒くなる思いがしたのであった。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております

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