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2007年1月13日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(41)「再入院・別れ」

「聖書と十字架を持って来て下さい」

 これだけ言うと、妻は顔を隠すように掛布を引き上げた。

 入院二日目の午後であった。妻の腹は、樽のようにふくれていた。肛門の筋肉がすっかり動かなくなって、糞やガスが腸に一杯になっているということである。

「ああ、苦しい、何とかして下さい」

 妻は額に汗を滲ませて呻いている。

 医師も手を焼いていたが、遂に、肛門から細いビニール管が差し込まれることになった。この方法には、ビニール管が臓器を傷つける危険が伴ったが、それも止むを得ぬことであった。

 医師が妻の腹を摩ったり揉んだりすると、挿入された透明なビニール管を伝って、どす黒い液体がドロドロと流れ出た。そして、その後を追うようにガスが低い音を立てて放出された。異臭が鼻を突く。妻の呻きが止まった。

 医師の後を追って廊下に出ると、医師は、昨日からの検査の結果を話してくれた。

それによると、腹のふくらみは、糞やガスの他に癌性腹膜炎による腹水のせいだという。そして、妻の容態は予想以上に悪く、ほとんどの臓器が癌で侵され、もはや手の施しようがないということであった。医師の目は、もはや、見込みのないことを語っていた。

 私は、病室に居た堪れず外に出た。あてもなく車を走らせると、何かに引き寄せられるように、車はカトリック教会へ向っていた。

 礼拝堂の中は静かで、私の靴音だけがこつこつと響いた。私は、妻に癌を告知したあたりに座っていた。あの時と同じように、私の前の席には、天井から光の束が差し込んでいる。私は、ふと、その光の中に妻がうつむいているような錯覚にとらわれた。

<お前は、どんな気持で俺の言葉を聞いたのだ。俺はかえってお前を苦しめてしまったのだろうか。お前に事実を知らせたのは誤りだったろうか>

 私は、目の前の妻に語りかけるようにつぶやいていた。

顔を上げると、目の前に、私を見下ろすようにキリストの像が立っている。

<神様、どうか妻を助けて下さい。もう、あなたにお願いするより他にないのです。妻はあなたの御意志に忠実に生きてきた女です。どうか妻の命を助けて下さい>

祈りの言葉すら知らない私であったが、両手を合わせ、ただ祈っていた。

しかし、妻の容態は急速に悪化していた。頬骨が突き出るかと思われるほど頬はこけ、皮膚の色もめっきり悪くなった。

 私は、妻が坂道を転げ落ちるように悪くなってゆくのをただ見ているだけの自分が歯痒かった。

 妻は、時々、ひどく落ち込む風であった。

「私は、まだ、死ぬということが分からない。神様の御意志がどこにあるのか分からない」

そんな言葉を口に出す妻の心があわれであり、また、それを聞くのが辛かった。

 入院4日目、5日目位になると、妻は、肉が削ぎ取られてゆくように、一段とやつれていった。失われてゆくもの、衰えてゆくものは、肉体だけではないようであった。

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

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