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2007年1月 8日 (月)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(40)「再入院・別れ」

私には、妻の胸の内が痛い程分るが、話しかける言葉がない。私の頭に、妻の腹に取り残されたがん細胞のことが浮かんだ。

<薬が効かないでずっと増殖していたとすれば……>

私は、妻の体内の恐ろしい光景を想像して戦慄した。

「もし、再発だったらどうしよう」

妻は身を起こして言った。

私は、淡い光の中で、妻の思いつめた青白い顔を見上げた。私は、黙って首を横に振り、枕元のスタンドの紐を静かに引いた。妻の悲しそうな顔が闇の中へ消えていった。

翌日、私は、妻を連れて日赤病院へ出かけて行った。そして、妻は、この日を最後に二度と我が家へ帰ることが出来なかったのである。

妻が診察を受ける間、私は廊下で待っていた。私の視線は、手にした雑誌と診察室のドアとの間を落ち着きなく行き来した。やがて、私は、別室の医師の前に呼ばれた。

「肛門閉塞が起きています。癌細胞が肛門まで広がって肛門が塞がれているのです。腹水も大分溜まっています」

医師の言葉に、私は愕然とした。悪い夢を見ているのではないかと思った。心の片隅で覚悟はしていたものの、こんなに早くその時が来ようとは信じられなかった。

そのまま、直ぐに入院という事になった。妻は、個室に入れられた。顔見知りの看護婦の表情や動きもいつもと違う。何か異様な緊張が部屋全体を包んでいる。

「私、そんなに悪かったの」

妻は悲しそうに言った。私に出来ることは、ただ、妻の手を握りしめることだけであった。

妻は、すべてを悟ったようである。

重苦しい沈黙が続いた。そして、妻は、間もなく眠りに落ちた。看護婦が注射した精神安定剤のせいであった。

妻は、これからどうなっていくのだろう。妻の死を、私はまだ現実的なものとして受け入れることが出来ない。

窓の外は既に深い闇で被われている。引き込まれるような静かな夜である。遠くで犬の鳴く声が聞こえる。

幾分冷静を取り戻した私は、ゆりのことを考えていた。ゆりを会わせなければならない。ゆりには、どう説明したら良いのか。その時、妻が目を醒まして小さな声で言った。

「ゆりはどうしているの」

「夕食を済ませ、今は、寝ている」

「かわいそうに」

妻は目頭を拭きながら言った。

「明日、ここに連れてくる」

「駄目です。連れてきてはいけないわ。今は、止して下さい」

妻は哀願するように言った。

私には、妻の気持が良く分かる。妻はまだ事態を受け止められないでいる。そんな姿を娘に見せて悲しませたくないと考えているのだ。

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております

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