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2007年1月 7日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(39)「退院」「再入院・別れ」

「退院」

それでも、ようやく、待ちに待った退院の時が来た。その日、久しぶりに聞くゆりの甲高い喚声が部屋に響き、妻は懐かしい畳の匂いに酔っている風であった。トントンと俎板で野菜を刻む妻の腕にも喜びがあふれている。親子揃っての楽しい夕食は、昨日までのことを思うと夢のようだ。

だが、ゆりと屈託なさそうに笑い興じている妻の横顔を見ていると、また、私の胸に暗い影が頭をもたげる。

<腹の中に取り残された癌細胞は、どうなったのだろう。抗癌剤やワクチンは効いているのだろうか>

妻は退院後、日に日に、少しずつ良くなってゆくようであった。五月の末に退院し、七月を迎える頃には、妻の体調は見違えるほど良くなって、自転車に乗って買い物に出かけられる程であった。

一家は幸せを味わっていた。ゆりは、毎朝、元気良く学校へ出かけ、飛ぶように帰ってくると、母親にまつわりついてはしゃいでいる。

ある日曜日のこと、親子は利根川の河原で遊んだ。既に盛夏、ギラギラとした太陽が青い空で燃えている。その下で利根川は気持ち良いしぶきをあげて流れていた。流れを遡ると緑の松林が広がり、その上に赤城山のなだらかな稜線がゆるいカーブをつくって走り、更にその上には、雪をいただいた谷川岳の山々が連なっている。

ゆりは、はしゃぎ回り、夢中になって水と戯れている。私も妻も、病気のことは忘れて楽しい一時を過ごしていた。

しかし、私達の幸せは長くは続かなかった。この夏の日を境にして、妻の体調はくずれていった。そして、運命の時は意外に速くやって来たのだった。

「再入院・別れ」

七月も終わりに近づいた頃、妻は目立って痩せ始め、しきりに疲労を訴えるようになった。そして、八月になると、思うように排便が出来ない日が続いた。

医師は、手術後に予想される体調の変化だと言うが、私は、取り残された癌細胞のことが思い出され、大変不安であった。ついに、全く便通が絶え、妻は、固く張った下腹をさすり、額に油汗を滲ませ、怯えた目で私を見るようになった。その様子を見て私は狼狽した。

明日は一緒に日赤へ行って、良く診てもらおうと話し合ったその夜のことである。

「もう駄目なのかしら」

妻は、青ざめた顔で呟いた。

静かな夜である。二人の間では、ゆりが静かに寝息を立てている。妻は、娘の寝顔をじっと見詰めていたが、堪え難そうに俯ぶせになると枕に顔を押し当てた。その肩が小刻みに震えている。(明日の祝日に続きます。)★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

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