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2007年1月 6日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(38)「妻の発病」「入院生活」

 やがて、祈りを終えて振り向く妻に、

「お前の病気は癌なのだよ」

 言葉が自分の意志ではないように、私の口をついて出た。

妻は、冷静であった。その顔には、私の恐れた狼狽の色はなかった。澄んだ目を私に据えて、私の話を一つ一つ受けとめている。

「そうだったの。やはり」

そう言って、しばらく私の顔を見詰めていたが、やがて、真剣な表情に戻って言った。

「ゆりには絶対に知られないようにしなければ。ゆりの小さな心を苦しめたくないわ。ゆりには、とても耐えられない苦痛よ」

「それよりも、お前の方が心配だ」

「それは、大丈夫です。安心して。自分でも不思議な位平静よ。私、これで、神様に本当のお祈りが出来ます。それから、あなたと心を一つにすることが出来たのですもの」

妻の表情には、微笑が戻っていた。彼女が強がりを言っているのでないことがうかがえて私は安心した。

「入院生活」

間もなく、妻は、日赤病院に入院して、手術を受けた。

手術の当日のことである。私は、手術室に通じる重い扉の前に立っていた。最初の一時間は、息を殺して扉を見詰めていた。扉が開く度に、自分の名が呼ばれるかと緊張する。それは、手術が不可能な時は、一時間位で手術室から出されるという話を聞いていたからである。

そのようなこともなく最初の一時間は過ぎた。時計の針は刻一刻と妻の生還の時を刻んでいくように思えた。妻が手術室へ入っておよそ二時間が過ぎた頃、鉄の扉の向こうから、医師が銀色の盆を持って現れた。

「これが奥さんの胃を切除したものです。この部分が患部です」

医師は、肉片のどす黒く盛り上がった部分を指して言った。

医師の話では、癌は胃の幽門部を破り、膵臓や腸の一部に転移しており、患部を全部切除することは技術的に不可能とのことであった。私は、頭の芯に強い衝撃を受けたように感じた。

日も暮れようとする頃、妻は病室へ戻って来た。土気色をした妻の顔には、蝙蝠が覆い被さるように酸素マスクが付けられている。そして、酸素を送る機械の乾いた音が室内に響いている。

妻の苦しい闘病生活が始まった。癌は全部とれたと信じている妻は、神に感謝しつつ、懸命に頑張る。私も、ワクチンを取りに東京へ走ったり、妻が沈んでいる時は教会へ神父を呼びに行ったり、少しでも妻の病状が良くなるように願って飛び回っていた。しかし、そうしながらも、耳の底に焼きついている手術後の医師の言葉が気にかかるのであった。

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

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