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2006年12月10日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(30)「東大紛争・林健太郎先生との出会い」

 私は、一般学生の一人として、やり切れない気持ちで紛争を見ていた。学園外の一般社会で生きてきた私にとって、学生同志の議論のやり方には、ついてゆけないところがあった。彼らは、そんなこと世の中では通用しないと思えることでも、自分の理想と理屈に合っていれば、どこ迄も押し通そうとする。その純粋さは時に羨ましく思うこともあったが、活動家の押し付けがましい強引な態度にはいやけがさしていた。

 私は、林健太郎先生のゼミで、「若きマルクスの人間像」という題のドイツ語の原書をやっているうちに、紛争が本格的となり、授業も打ち切られることになった。クラス討論、学部集会などが絶えず行なわれ、ストライキの是非、紛争の解決策などを巡り、議論が交わされた。

 私は、紛争が東大を正常なものにするという本来の目的からはずれているから、ストライキを止めるべきだと発言したことがあるが、やじと怒号で吹き飛ばされてしまった。しかし、私に同調する声も多いということを周りの視線から感じることができた。

 紛争中のある夜、現在、読売の政治部にいる松本斉君と、善福寺の林先生宅を訪ねたことがある。松本君も私と同じように考えており、先生を囲んで、学部の様子、他学部の状況などを話し合い、また、先生から求められて、自分の考えを述べたりした。林先生の冷静沈着な御様子は、紛争の渦中にあっても変わることがない。口数は多くないが、発する言葉には、大変な重みが感じられた。

 その後、先生は文学部長となり、そして、有名な173時間の軟禁事件に遭遇されるのである。

 文学部のストライキの中で、教授との団交がしばしば行なわれた。学生側は革マル派が中心であった。林先生は、ここで学生側の理不尽な要求を頑としてつっぱねたので、他の教授は帰されたが、林先生は長く軟禁状態におかれることになった。林先生は筋の通った明快な論理を主張して一歩も譲らなかった。革マル派の学生も内心もてあまし、かといって自分達の非を認めて軟禁を解くわけにもゆかず、困ったらしい。外にいる私達にも、先生の発言や様子が伝わってくる。学内外の世論は、林先生支援で盛り上っていった。このような騒ぎの中、三島由紀夫、阿川弘之らが、林先生支援にかけつけるといった一幕もあった。とにかく、林先生は、終始自分の主張を明快に、そして、冷静に説き続け、173時間、ついにドクターストップになって東大病院にかつぎ込まれるまで頑張り通した。

 先生の態度は、この東大紛争の中にあって、いつも優柔不断で、勇気を持った判断を下せず右往左往していた大方の教授連と比べ、一際光っていた。林先生を軟禁した派の中には私の友人、知人がいたが、彼らも、林先生の態度には脱帽し、敬意を払っていたらしい。後に、機動隊に攻められて、建物を占拠していた学生は全て追い出されたが、文学部の壁に「林健太郎に敬意」という落書が残されていた。林先生は、命をかけ、体を張って、学生に対する教育を実践されたのであった。この間の事情は、文芸春秋6月号(1992年)に、当時の警備責任者佐々淳行氏の「偉大なる教育者、林健太郎」に詳しく書かれている。先生は、その後、東大総長となり、さらに、参議院議員になられたことはあまりにも有名である。(次回は12月16日(土)に掲載予定です)

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