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2006年12月17日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(32)「中村塾の誕生」

 生徒との対応は、真剣勝負である。こちらが一生懸命に打ち込んで、それに対する反応として緊張した眼差が返ってくる。心と心の触れ合いを感じる時、それは、今までに経験した事のない快感であった。自分の説明する知識が理解され、生徒の脳細胞の中に吸収され、彼らの心の世界を広げていくと考えると、子どもを教えることは、とてもやりがいのある仕事と思われた。

 数人の生徒でスタートした教室は、間もなく生徒の数が増えて入り切れない程になったので、近くの農家の一画に移ることになった。塾で食えるのかという不安が薄らぐ一方で、私は、自分でも気付かぬうちに、塾にのめり込んでいった。別な見方をすれば、いつしか中村塾と呼ばれるようになった我が塾が、一つの塾風といった方向性を持って一人歩きを始めたともいえるのであった。

 塾が軌道に乗る迄の間、司法試験の勉強が思うように果(はか)取らぬことに、時に苛立ちを覚えつつも、自分の勉強と塾の指導に打ち込む私には意気軒昻たるものがあった。定時制高校時代、仕事と勉強を両立させて、これを貫いたということは、私を支える一つの自信であった。

しかし、家庭をもち、塾という難物と取り組むことは、これに予想外のエネルギーを注がせることになり、仕事と勉強の両立といっても、定時制時代とは異質な壁に私は突き当たることになるのである。そして、後に、もともと病気がちであった妻が、深刻な病に冒されるに到り、私自身も絶望の淵に立たされることになるのであった。

 塾で生計を立てる為には、最低60人位の生徒は教えなくてはならない。私は、中学生各学年一クラス二十名ずつの三クラスを教えた。それぞれのクラスは、週二回で、一回の授業時間は、九十分であった。教科は英語と数学を中心として、その進行の度合いを見ながら、理科と社会も重点を絞って教えるというやり方であった。

 ほとんどの生徒は、成績を上げることを目的として塾の門を叩く。どのような教え方、方針でこの期待に応えたらよいか、これは、塾で教える者にとっての共通の課題である。それは、進学塾であるか補習塾であるかによっても異なる。

 当時の中村塾は、良くできる者、中位の者、そして成績の悪い者と、いろいろな程度の生徒が混っており、従って、進学塾と補習塾の両方を兼ねるといった形であったので、教え方にも常に工夫を要し、悩みも多かったのである。

 どうしたら成績が上がるかという問題を、生徒の立場に立って考えるならば、自分の頭の程度と勉強の進み具合、つまり、実力の程度とを考えて、学校の授業と塾の勉強を上手く結びつけ、両方の勉強が合して効果を高めてゆくような学び方が理想である。

 このことを考えて、中村塾では、原理原則を丁寧に教え、これを基礎にして学校の授業をものにするようにと、学校重視の指導に心がけた。

 成績の良い生徒も、暗記に頼って、原理原則の深い理解には到っていない場合が多いので、原理原則をやさしく丁寧に説明することは、できる生徒とできの悪い生徒が同席する教室でも有効な教え方であった。

 このように、基本的なことを大本(おおもと)まで遡って説明した上で、残りの時間は、程度の高い問題と低い問題を同時に出して、生徒の実力に応じてこれらに取り組ませた。このようなやり方で、塾の業績としてもかなりの成果をあげるようになっていた。(12月23日(祝)に続く)

*土・日・祝日は以前からのご要望により、「上州の山河と共に」を連載しております。

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