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2006年12月16日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(31)「林健太郎先生との出会い・中村塾の誕生」

 林健太郎先生は、私にとって、それ迄、その輝かしい業績と共に学者として高く仰ぎ見る存在であったが、東大紛争を通して、私は人間として、教育者として、先生の偉大さを知ることになった。先生は、また、その冷静な風貌の中に大変温かい愛情を秘めておられた。私が全く無名の新人として、県議選に打って出た時、先生は、私のような弟子の為に、ポスターやパンフレットに推薦者として名前を出すことを承諾し、更には、前橋の県民会館に来て心のこもった応援の講演をして下さったのである。この点については、後に、改めて触れることにする。

 東大紛争が峠を越し、収束に向かう中446月、私は東大を卒業した。あの騒乱を連日テレビで見て、卒業はできないかもしれないと心配していた父が、涙を流して喜んだ。

 そして、この年の9月、長女ゆりが誕生した。

再び故郷へ

「中村塾の誕生」

 私は、東大卒業後、前橋に帰り、学習塾をやりながら、司法試験を一気に片づけようと考えていた。紛争の最中も、仲間との勉強会は続けていたし、真法会という司法試験の受験を指導する団体に顔を出して模擬試験を受けるなど、かなり厳しい勉強をしていた。従って、田舎へ帰ってこの調子で勉強すれば何とかなるだろうと考えていたのである。

 卒業の翌年、一次試験に合格する。これは、憲法、民法、刑法、各20問ずつ出され、各問には4つから5つの選択肢があって、そこから正解を選ぶ形式のテストである。分厚いノートを何冊も作り、細かい条文を暗記し、何千題もの問題を解くといった苦行の末の合格は実に嬉しかった。

 私が東京で試験問題に取り組んでいる時、前橋の教会でお祈りしていたという妻の目には涙があふれていた。

 しかし、2次の論文試験は見事に失敗であった。

 翌年の合格を期す私の心は重かった。ゆりにお乳をやる妻の姿を見ると、経済的に苦労をかけたくないと思う。そんな思いで、私は、西片貝町の小さなアパートで学習塾を始めたのであった。それは、西片貝町2丁目の大沢アパートの一画であった。現在では、桑畑や木造のアパートはすっかり姿を消し、その辺りは一変しているが、私のアパートの隣りにあった「木戸製本」が当時のまま存在しており、昔を思い出させてくれる。

ただ生活の糧を得ることを目的として、みすぼらしい木造アパートの一室で、中学3年生数人と共に、後に中村塾と呼ばれるようになる私の学習塾はスタートした。

 襖一つ隔てた隣の部屋からは、時々ゆりの泣き声と、こちらに気を使って子どもをあやそうとしている妻の気配が伝わってくる。畳の上に寄せ集めの食卓の幾つかを並べただけの教室で、まさに、昔の寺子屋はこんなものかと思わせる光景であった。

 学習塾というのは、なかなか大変な仕事であることがすぐに分かった。それは、物を扱う仕事でなく、人間を対象とした仕事であり、しかも、学習の効果を上げる為には、自分の心を開き、相手の心の中に入り込むといったことまで必要とされる作業だからである。(明日の日曜日に続きます)

*土・日・祝日は以前からのご要望により、「上州の山河と共に」を連載しております。

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