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2006年11月30日 (木)

家畜改良事業団で講演

 前橋市金丸町の北端にある事業団は、家畜改良技術の研究等に取り組んでいる。研究者の多くは、県外の人で、群馬の事をよく知らない。そこで毎月一回、講師を招いて群馬のことを勉強するのだという。私は、「近代群馬の夜明け」と題した話をした。取り上げた主な人物は、新島襄、初代県令楫取素彦、初期の県会議長湯浅治郎など、また、取り上げた出来事は、廃娼運動、奴隷船マリアルス号の波紋等であった。

 日本が鎖国を続けるうちに欧米は産業革命を達成し、驚くべき発展を遂げていた。それを、まざまざと突きつけたのが突然の黒船の来航だった。優れた異文明の国を、命をかけてもこの目で見たいと願う若者は多かったに違いない。吉田松陰は正攻法で取り組み失敗して処刑されたが、新島襄は密航し、幸運にも恵まれて貴重な体験と成果を得て新生日本に帰国する。

 故郷の安中で新島襄はアメリカの事やキリスト教について話した。胸をときめかして話を聞き感化されてクリスチャンになった若者が湯浅治郎だった。彼は県会に入り第二代の県議会議長になった人である。

 群馬は古来街道が発達し多くの宿場がありそこでは「飯盛り女」と称する娼婦が存在し近隣の風紀を乱していた。廓も多くあった。新しい時代の息吹の中で外国に負けない国を作ろうと願う若者たちは廃娼運動に取り組む。その中心に湯浅治郎がいた。当時の資料には若者たちの動きが生き生きと記されている。

 県議会は廃娼を議決し、初代県令楫取素彦は、それを実施することを決める。松下村塾で松陰を支え、その妹を妻とした楫取は任された群馬を教育と近代産業で発展させようとしていたのである。廓の存在は、教育環境を壊し、勤労精神を蝕む元凶であった。楫取が力を注いだのは「生糸」である。生糸産業は、群馬の機械産業と物づくりの基礎となった。

 第二代の佐藤知事は、廃娼の実施をめぐり議会と対立した。そして、議会の解散、その後の選挙では廃娼派議員が多数当選、そして、知事の罷免等破乱と曲折があったが、群馬は全国に先がけ唯一の廃娼県となりこの分野の金字塔をうち建てたのである。

 大正3年に行われた群馬県廃娼20周年記念大会で、前橋市議会議長徳江亥之助は、若者達に訴えた挨拶の中で次のように述べた。「精神文明が物質文明より優秀だとすれば、利根の水、赤城榛名妙義の山よりも、また古来の群馬の桑織物よりも、本県が全国唯一の廃娼地たることの一事をもって天下に誇るべきである」

 このような明治の出来事は忘れられているが今改めて見詰めるべき意味があると思う。精神的に乱れた今日の社会の原点に明治の若者たちの生き生きとした姿があった。また、今年3月伊香保の外国人少女売買事件が摘発された。人身売買罪は昨年の改正刑法で新設されたもの。今日でも売買されて娼婦にさせられる女性が多くいる。世の中は変わっていないのだ。事業団ではこのような話をした。群馬を知る手がかりになったであろうか。

(群馬の歴史から学ぶ輪が広がることを願って。読者に感謝)

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2006年11月29日 (水)

群銀幹部との意見交換会

 こちらは、自民党県議の役員が出席した。恒例の意見交換会は有益だった。銀行は経済の中枢である。そして、群銀は、群馬県の行政とも密接に結びついた群馬の経済の中枢に位置する。だから幹部役員は地域経済の生の実態を知っている筈である。こんな期待を持ちながら、私はテーブルを囲んだ人々に質問し、また意見を交わした。

 そこで得た情報をいくつか紹介したい。彼らは、景気の好調は続くと見ている。群銀の今年度の税引き利益は、90億円で過去最高となる予想だ。預金者の意識に変化が生じているという。群銀だけで3000億円の金が投資信託に集まっている。群銀は、この金を株や債権に投資して運用しているが、客との間でトラブルもあるらしい。私のテーブルの幹部は、企業は好調だが、その利益が消費者に届いていないと語っていた。消費者、つまり労働者の立場が弱くなっているのだと私は思う。景気を支える重要な柱の一つは消費の伸びである。かつては、春闘という言葉が盛んに聞かれる程労働運動が行われた。その行き過ぎは弊害を伴うが、今日の低調ぶりは健全な社会の姿とはいえない気がする。「学生運動」も行われなくなった。全体として、人々の志気が落ち、社会の活力が失われていることの現われかと思った。

 私は、閉会の挨拶の中で、経済の好調だけでは世の中は良くならない、教育も福祉も治安も良くして活力ある群馬をつくるためには、人心の一新、県政の刷新が必要だと述べた。

 勿論、来年の県議選と知事選を念頭においた挨拶である。来年の選挙のテーマはまだ霧の中であり明確になっているとはいえないが、地方の活力を生み出すことが重要な目的の一つであることは間違いない。

◇「群銀の投信」について。群銀幹部の話に出たことは、新しい経済の動きとして重要である。銀行の投信販売が解禁されたのは98年のことだが、売り上げは、急速に伸び、06年10月現在、45兆7千億円に達し、これは、証券会社の実績とほぼ同額だという。

 金融庁が、この新しい銀行業務の検査に乗り出した。まだ、銀行は、「投信」に慣れておらず客の利益を無視した不適正な対応が多いことが、三菱東京UFJ銀行の検査で指摘されたのだ。「投信」は、元本が保障されていない。客は、元本割れのリスクを理解した上で購入することが重要で、銀行には説明責任がある。

◇群銀が最高の利益を上げることは、県税収入が増えることを意味する。国の税収も増えている。尾身大臣がぐんまアリーナで、世界一の借金大国を改革することを語っていた。まず、国の借金の一つ、国債を減らすことだが、その新規発行を30兆円以下に抑えるという小泉内閣が果たせなかった公約は簡単に達成できる見通しらしい。県の来年度予算もこの流れにある。県民の活力を生み出す予算としたい。(身近な経済を学ぶ輪が広がることを願って。読者に感謝)

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2006年11月28日 (火)

自由民主党大会のインパクトの大きさ

 26日の、ぐんまアリーナから発した波が静かに広がっているようだ。地域を回っていて、出会う人と会話すると、必ずといってよい程、党大会のことが話題になり、その中で話は知事選と県議選のことに及ぶ。知事選については、連日のように知事の不祥事が報じられていることが、人々の関心を煽っているようだ。

 大沢正明県議会議長の知事候補としての知名度は、一気に、そして、飛躍的に高まったらしい。「マスコミの力は凄いね」とある人が言った。たしかに、マスコミの力は大きいが、それだけではない。大沢議長の知名度をアップさせている要因は、小寺知事の対立軸に位置づけられたことにある。いわば、小寺知事の知名度が大沢正明氏の知名度を同じ高さまで引きあげたともいえる。多選批判の世論と自民党の力をバックにして、大沢さんが、小寺さんと五分に戦えるところまで行くことは間違いないだろう。当選できるかどうかは、多くのその他の要因がどう作用するかにかかる。そして、それは今後の戦略次第である。

 小寺、大沢の対立の構図が明確になったことで、山本龍氏の陰が薄くなったようだ。山本氏の動きを遠くから見てきたが、マンガチックな感じがする。このことは、これまで、小寺知事の対極としては軽すぎると見られてきたことにもよる。これからは、大沢氏がその軽重を問われることになるだろう。

 県議選に関しては、新聞が「2N」とか、「4K」とか書いたために、いろいろなところで、からかわれる。また、前橋選挙区で党大会に出ない県会議員がいることを、私が「日記」で書いたのを読んで、「それは誰ですか」と聞く人もいる。県議選に対する一般の関心は、まだ、こんな程度で、知事選ほど高くない。知事選の行方は、群馬県の明日を左右する深刻な問題であると捉えているのに対して、県議選については、人々がそのように真剣に考えていないことの違いである。真剣なのは、当落がかかる私たち議員とそのまわりの支援者である。

◇土曜日の夜、息子と赤城の大沼湖畔へ行った。覚満渕のみやげ店は明りがついていた。中でダンロを囲んで飲んでいる人の仲間に加わって私たち親子は心休まる一時を過ごした。山へ登ったのは嫌な下界を抜け出すためであった。前日匿名の投書があって、息子のことが書かれてあった。「通学路で挙動不審、事件が起きてからでは遅い、対策を」ざっとこんな内容だ。妻は声を殺して泣いた。それを見て、私の心は湖の底のように冷め、深く考えることがあった。知的障害を持つ長男周平が、険しい茨の道を必死で生きてきた姿が瞼に浮かぶ。白根開善学校では百キロ強歩を三度完歩した。投書を得て、周平は、まだ、百キロの道を歩いていると思った。息子は、真面目に生きているが表現や行動が誤解されやすい。子どもが受難の時代である。投書はやむを得ないと思った。山の店で、周平は、素晴らしい出会いを体験したようだ。春になったら一人で訪ねると約束していた。帰途、ライトの輪に一匹のタヌキが現われた。私たちは声を上げて笑った。(選挙戦の大きな流れが、明日の力を生み出すことを願って。読者に感謝)

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2006年11月27日 (月)

自民党大会のエネルギー(26日)

 2万円のパーティー券を8千枚近くも売って自民党の政経セミナーは開かれた。ぐんまアリーナを埋めた人々のエネルギーを感じたのは、むしろ、会場を移して行われた記念パーティーの時である。午後、1時をとうに過ぎていた。いくつものテーブルに並べられた食べ物の山は、立錐の余地なく押し寄せる人々の胃袋の中に瞬く間に消えていく。それは、貧欲な胃袋の集団が群がる光景のようであった。この胃袋の主がその気になって集票に動いたなら、県議選も知事選も自民党が勝利することは間違いない。

 政経セミナーでは麻生外相の挨拶に人々は注目したようだ。外相は、日本人は、日本に誇りを持つべきだとして、外相の日頃の体験に基づくいくつかの興味ある話題を提供した。まず、国力であるが、アフリカには53の国がある、その国々の国民総生産の合計は韓国のそれに相当し、日本の国民総生産は、韓国の7倍であること、多くの外国人は靖国神社を軍国神社と思っているが、訪ねてみると軍服を着た人は1人もいないので驚くという話、また、アメリカ人が日本を語る印象として、自動販売機が屋外どこにもあることがびっくりだというのだ。これらの機械には金が入っている、アメリカでは考えられないと。自動販売機が外にあることについては、中国人も驚いていたことを、私も直接中国人から聞いたことがある。靖国神社のことは、日本が平和国家であること、自販機の例は、日本の治安が良いことを外相は伝えたかったのだ。

 尾身財務大臣は、日本の借金は世界一であり財政再建が急務であるが、経済の成長なくして財政再建はない、二つを両立させる、そして失敗しても再チャレンジできる国にしたい、そのために、地域の活性化が必要だと訴えていた。

◆この大会の主要な目的は、来年の選挙に向けた力の結集である。来年は、県議選、知事選、参議院選がある。最大の懸案は知事選である。知事選の候補予定者大澤正明県会議長は、人心の一新と県政の刷新の為に立候補を決意したと力強く訴えた。多選の弊害が全国至る所で起きていることは、群馬の知事選において、大澤さんにとっては最大の追い風となり得る。これを当選に結びつけるカギは分かり易い政策を打ち出すことと、官僚ではない身近な手作りの知事をつくろうという世論をいかにして生み出すかであろう。

 次いで、「県議選」では、42人の公認と推薦の人々が名を呼ばれ、壇上に並んだ。この大事な舞台に、公認と決定されていながら欠席した県議がいた。この人の出欠が不明だったため、前橋地区は、本来、最初に紹介される筈であったが、最後になった。なお、現職で引退を表明している県議は松沢睦氏と須藤日米代氏である。松沢県議の引き際の決断と態度は流石(さすが)である。この松沢さんから県議代表にZ旗が渡された。群馬の興廃この一戦にあり、である。戦いの火蓋は切られたのだ。

(選挙戦の勝利を願って。読者に感謝)

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2006年11月26日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(26)「本郷での生活」「割田千鶴子と結婚」

「本郷での生活」

 いろいろの思い出のある駒場時代を終えて、私は本郷へ移り、西洋史を専攻することになる。しかし、ほぼこれと同じくして、学園は、新たに騒然とした空気に包まれてゆく。

 本郷の生活は、向ヶ岡寮で始まった。文京区弥生町の向ヶ岡寮は、東大農学部の北に接して置かれている古い木造の建物である。ここは、駒場寮とは違って、畳の部屋に2人ずつ入る仕組みであった。私は、前記の家久勅男君と共同生活することになった。

 西洋史の研究室は、東大の正門を入ると、正面の安田講堂に向かって、右側に位置する法文系の大きな建物の一画にあった。

 研究室で顔を合わせる先生方には、村川堅太郎、林健太郎、堀米庸三等、教科書やいろいろな書物で馴染みの教授がおられた。駒場の時は、ゼミの場を別とすれば、教師との間には距離があり、個人的に言葉を交わす機会などなかったが、本郷では、ゼミ、小グループの授業、あるいは研究室で、教師と直接に接することが日常の事であるのが特色であった。

 林健太郎先生とは、今でも毎年お会いするが、当時の先生は、端正な顔、冷静な表情の中に、強いエネルギーを秘めておられるような御様子であった。本格的な歴史の学問ができると思うと私の胸は高なるのだった。

 私は、小さいときから歴史が好きであったが東大に入り、駒場時代、鳥海靖、笠原一男、あるいは中屋健一などの講義を聞き、歴史への関心は一層高まった。また、仲間との読書会で精読したEH・カーの「歴史とは何か」からは、自分が知らなかった歴史の見方、考え方、あるいは、歴史の役割というようなものを教えられ、目が醒める思いであった。

 そして、歴史を勉強する中で、近代日本が西洋からの大きな影響力の下で生まれたこと、ギリシャやローマなどから流れ続ける西洋文明の大きな流れの中に、我々の現代文明が置かれていることを、折に触れ考えるにつけ、日本の歴史をより深く理解し、日本の現実と将来を考える為にも、西洋史を勉強することが必要と思い、私は西洋史学科に進んだのであった。

「割田千鶴子と結婚」

 本郷に移った年の秋、人生の一大事を経験する。私は、割田千鶴子という女性と結婚した。彼女は、群馬県警察学校長や渋川警察署長をした警察官割田幸蔵氏の長女で、大学に入った年にふとしたことがきっかけで知り合い、交際するようになった。彼女は敬虔なクリスチャンで、文学を好む理想家肌のタイプであった。やや病弱で、ほっそりしていたが、芯は相当に強い女性であった。(次回は12月2日(土)に掲載予定です)

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2006年11月25日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(25)「駒場の生活」

 駒場時代の仲間については、思い出が多いが、皆、様々な人生を歩んでいる。秀才と言われながらも、挫折して中退して行った者も何人かいる。弁論の同じ部屋にいた二人の先輩のうち、阿部孝夫さんは自治省の高級官僚をやめて、最近新しくできた北陸大学の法学部教授になったし、松本仁一さんは、朝日新聞のカイロ支局長として活躍している。また、寮外の先輩、伏屋和彦さんは、大蔵省主計局法規課長として大活躍だ。隣のベッドにいた同輩の一人には、戸沢義男君がいて、現在、県立女子大の教授として頑張っている。その他弁論の仲間は、銀行やジャーナリズムで仕事をしている者が多い。

 駒場の弁論部の仲間で、特に親しくなり、また、私が大きな影響を受けた男がいた。それは、弁論部の家久勅男君と言って、初対面の印象は、素っ頓狂で、見るからに型破りの男であった。知識欲が異常に旺盛で、丸い目からも、盛り上がる筋肉からもエネルギーが溢れている感じである。

 私が秘かに観察していると、彼のものの見方が面白い。それは、あらゆることに批判的であり、学生にしては老成(ませ)ていた。<君らはそういう風に観ているが、こういう見方もできるんだよ、こういう論点もあるんだよ>と、問題を分析し、本質をえぐり出してみせる。その手法が私には痛快に見えた。

 彼の目に、私のことは、弁論部にけったいなのが入って来たと映ったらしい。二人は意気投合し、その後はよく行動を共にした。本郷に移ってからは、2年間、狭い、向ヶ岡の寮の部屋で過ごした。

 家久君の本当の凄さは、こんな所にあるのではない。彼は、弁論の仲間が一致して認めるように、一種の天才である。一見して、勉強家に見えないし、事実ガリ勉タイプではない。しかし、成績は、全部「優」で、駒場時代を通しての平均点が85点かそこらであり、文科系ではおそらく一番であった。法学部を卒業する時は、どこか大手の社長に三顧の礼をもって迎えられて、しぶしぶ就職したが、窮屈を感じて、間もなくそこを飛び出し、しばらくは恩師の世話で官庁の外郭団体で働いていたが、この間、学生時代から付き合っていた自慢の彼女と結婚し、子どももできたので落ち着くのかと思っていたら、ある時、電話で北海道の医科大学に入ることにしたので引っ越すからと言ってきた。

 北海道時代は、学習塾をやりながら悠々とやっていたが、卒業後は、郷里の福井県に戻り、福井大学で働くことになった。それからまだそれ程の年数も経たないが、現在、福井大学の助教授として活躍している。

 大変な人情家でもあって、私の妻が死の床であえいでいる時、福井から奥さんとかけつけ、いろいろ力になってくれた。意識が薄れてゆく妻の枕元で<いい女性(ひと)だったのになぁ>と言って、ぽろぽろと涙を落としていた。(明日の日曜日に続きます)

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2006年11月24日 (金)

議員選の記事が始まった

「県議選の構図」と題した新聞の連載記事は、前橋市・勢多郡区から始まった。一面の記事が大きい事もあってか、反響はかなりのもので、私のところへもいろいろな意見が寄せられた。私の属する選挙区は、県内一番の激戦区になりそうだが、その一因は、合併と定数減にある。これらは、私が議長のときの出来事であり、あの時生まれた筈の衝撃波が大きくなって近づいてきたことを感じる。

 次回の県議選に限って、合併前のエリアで選挙をすることが出来るとする特例が定められていた。議員は各地域の有権者と結ばれている。選挙区が変わると、この有権者とのつながりが切断され、議員にとって死活の問題となるから合併には消極的になりがちだ。そこで、平成の大合併を実現させたい国は、議員のために特例を設けたというわけである。県議会は早々と決議して、次回の県議選は、従来の型で行うことにしたのである。これに対して、轟々たる批判が起きた。とくに、合併によって新しい自治体の住民になった人々は、なぜ、自分たちは新しい地域の選挙に参加できないのかと叫んだ。議長の私の机には、反対の署名簿が高く積まれた。

 私は、これを見て、各派に働きかけ、再度議会で審議し、遂に合併によって生まれた新しい選挙区で県議選を行うことになったのである。これは、議会が、世論に押されて自らの犠牲を覚悟して苦渋の決断を下した結果である。そこで、前橋、高崎の現職県議の中には、従来の基礎票の半数を失うと嘆く者も出ることになった。

 もう一つの大きな変化は定数の削激である。これも議員の身分に直接関わる大問題であり、激論が交わされた。ここでは、知事が独自の削減案を出したために、議論は一層複雑となった。結果は、議会案の通り、56議席から6議席減らして50議席となったのである。ちなみに、知事案は45議席に減らせというものであった。

 このような事態は、選挙戦を間近にして、切実な問題を生じている。迫り来る現実の重みは予想していたことをはるかに超える。そして、変革の厳しさは、大きな津波のように迫りつつある。 

それを示す数字が、「13」、「8」、「5」であり、これらは、今24時間、私の脳裏を離れることがない。13は前橋市・富士見郡区の予想される立候補者の数、8は、定数、5は、落選者の数である。特に「5」は、日を追うごとに、不気味な黒い雲のように迫ってくる。

 平成の大合併は、時代の大きな変化に対応出来るように自治体の形を変える試みである。合併は選挙区を変えるだけではなく、人々の意識も変える。選挙に関して言えば、有権者は新しい自治体にふさわしい代表者を新しい目で選ぼうとしているようだ。選挙民の意識の変化を肌で感じるのである。

 選挙というと冷笑する人もいるが、虚の部分もある民主主義の実の部分を積み重ねていく手段が選挙である。来年は選挙の年といわれる程、重要な選挙が続く。有権者は目を肥やして候補者の動きを見て欲しい。私は政策を訴えて貴重な一票を頂く姿勢を貫きたいと思う。(選挙に関する有権者の関心が高まることを願って。読者に感謝)

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2006年11月23日 (木)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(24)「駒場の生活」

 この本館の別の部屋で、私のように毎夜勉強する男がいた。中崎君という同じクラスの人である。もう帰ろうかと隣を覗くとまだ電気がついている。それでは自分ももっと頑張らねば、という気になって机に向かう。

 中崎君は兵庫県の出身であるが、私と仲良くなり、夏休みには前橋へ来たりして、群馬が気に入ったらしい。卒業後も、前橋の私の近くに来ていたが、高崎の女性と知り合い、結婚して上州の住人となった。今、弁護士となり、高崎で、中崎法律事務所をやっているのが彼である。

 駒場時代、思い出に残る勉強といえば、二つのゼミに参加したことである。一つは、玉野井芳郎先生の経済学のゼミ、もう一つは、中屋健一先生の米国史のゼミである。

 中屋先生のゼミは人気があって、なかなか入りづらい。簡単な選考テストがあったと記憶している。仲間の中には、弁論の部屋でベッドを並べている松宮勲君がいた。彼は、現在、通産省で大臣官房審議官として活躍している。

 このゼミは、米国史を原書で読んでアメリカをいろいろ考えるもので、英語を読むのは辛かったが、大変勉強になった。玉野井ゼミでは、ロストウの発展段階説とか、シュンペーターの「資本主義、社会主義、共産主義」などを勉強した。このゼミは難しかったが、新鮮な知的刺激を味わった気がする。

 駒場寮2年目になったとき、私は選ばれて寮委員になった。私の実社会での経験は、寮内の雑事の処理やトラブルの調整の為に役に立ったようである。寮委員の仲間には、いろいろ多彩な人物がいた。群馬で予備校小野池学園をやっている小池隆義君もその一人である。また、現在警察庁で随分偉くなっている兼元君もそうで、私が県会議員になってから陳情で警察庁に行ったら、丁度彼がいて、私の顔を見て驚いた様子であった。

 寮委員仲間で、特に親しくなった人に安田秀士君がいた。私達は、この後間もなく、東大紛争に巻き込まれてゆくが、彼は、その紛争の中、わずかの時間を見つけて辛抱強く勉強し、司法試験にパスしたが、紛争の行き詰まりで、卒業が出来ない破目になった。多くの者は、留年の道を選んだが、安田君は、東大卒の肩書きなどいるもんかと、あっさりと中退して行った。別段力むでも、いきがる風でもなく、日頃の彼の態度からしてそれは自然のことに見えた。

 大した奴だと思っていたが、その後、別れ別れになって長い年月が過ぎた。一昨年であったか、突然、年賀状が届いた。上野の法律事務所に行ってみると、あの時と変わらぬような調子で、ぼそぼそと話す、地味な安田君の姿があった。嬉しかった。

 今年(平成4年)になって来たハガキは、PTA会長の役目を無事終えたという挨拶であった。PTAのお母さん方の意見をいちいち聞いてやり、また、学校側にも、論理を尽くして言うべきことは言って、生真面目に頑張ったのだろう。額の髪をかき上げながら<しかしですよ、それは、ちょっとおかしいのじゃないかなぁ>とよくやっていた寮委員の頃の彼の姿が偲ばれるのである。(次回11月25日(土)に続きます)

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2006年11月22日 (水)

前橋赤十字の経営審議会に出る(21日)

 私は前橋赤十字病院の経営審議会委員である。会長は商工会議所会頭の曽我孝之氏がつとめ、委員には前橋市長や前橋医師会長なども名を連ねる。経営審議会委員の立場から見て、地域住民のために果たすべき前橋赤十字の役割は大きいと思うが一般の人々は、案外それを知らない。救命救急センターと基幹災害医療センターの役割は特に重大である。

 救急センターは、平成11年に開設され、24時間、医師が対応してくれる。この救急センターは、前橋赤十字病院の一角に設けられているのだから、患者の安心感は測り知れない程大きい。深夜でも電話をすれば親切に対応し、家族の車でかけつけても十分に見てもらえる。昨日の会議では、ドクターヘリの必要性、設ける場合のヘリポートと格納庫のことなどが話し合われた。災害時の事態を考えると、近い将来、このヘリコプターは実現しなければならない。

 次に、前橋赤十字は、基幹災害医療センターとして指定されているのである。大規模な災害に備えるためである。非常事態、緊急時のために、医療品や食料などが備蓄されている。阪神大震災の時、普段透析を受けていた患者がこれを受けられずに死んだという事実を教訓にして、災害時透析を受ける場所も設けられている。このような備えも、情報が伝わっていなければ生かすことが出来ない。情報は正に命の綱なのだ。

 しかし、災害医療センターも十分ではない。不足している事項として、患者600人と職員1000人の3日分の水・食料・薬剤などの備蓄倉庫、災害用ベッド100200床、応急処置用テントスペース、避難スペース等が指摘された。しかし、現在の前橋赤十字には、これらを確保するためのスペースがないのである。

◆この日の重要な議題の一つに病棟の建て替え問題があった。それは次のような理由による。施設の老朽化により近代医療への対応が困難であること、建物全体の40%以上(延床面積比)が新耐震基準を満たしていないこと、本館病棟の病室面積や廊下幅は、最新の医療法の施設基準を満たしていないことなど。前記の応急のテントスペースや避難スペースの問題もあって、建て替えには現在の所では狭すぎる 。

この時、前橋医師会の会長が特に発言を求めて、赤十字が他の郡市へ移ったら前橋の救急医療体制は崩壊してしまい、大変なことになる、そのようなことがないようにお願いしたいと訴えた。高崎市が強力に求めているとも聞いた。

私はジェネリック薬品の利用状況と未収金の問題を質問した。ジェネリック薬品は、特許の期限後に製造されるもので薬価が安い。病院で、6%位使われており外来は少ないとのこと。未収金は、年に2300万円位ある。県立病院より、回収に真剣に取り組んでいる印象を受けた。(前橋赤十字の発展を願って。読者に感謝)

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2006年11月21日 (火)

「多選自粛条例・高い倫理観や資質を有する場合も」

 今月6日の「日記」で多選自粛について書いたら、意外に多くの反響があり、その中に、高い倫理観を持つ人は別ではないかという意見があった。私は、高い倫理観を持ち人格高潔な人物が首長になった場合でも、多選には弊害が伴うと考えるのである。

 ここでは、東京都杉並区の条例が大変参考になると思う。杉並区は、03年、区長の任期に関する条例を可決した。

(目的)

 第1条、「この条例は、杉並区長が杉並区を統括し、予算の調整及び執行、職員の任免、その他の権限を行使する地位にあることにかんがみ、区長の在任期間について必要な事項を定めることにより、高い倫理観や資質を有する場合においても、その者が長期にわたり区長の職にあることに伴う弊害を生ずるおそれを防止し、もって区政運営の活性化及び区の自治の更なる進展を図ることを目的とする。」(傍線は中村)

(区長の在任期間)

 第2条、「区長は、通算して3任期を超えて存在することのないように努めるものとする」

◆なぜ多選は良くないか。何度も書いているように、強大な権力が一点に長期間集中することにより、法律には直接触れなくとも、民主主義の精神から好ましくない弊害が生ずるからだ。例えば、政治の独善化、人事の偏向、まわりがものをいえなくなる「裸の王様」現象など。

「有権者の判断に任せる」というのも、民主主義の理想論を逆手に取った論法である。なぜなら、知事は限りなく多い許認可の権限や、予算面での助成金制度を通して選挙では絶対に強い存在だからだ。だからこそ、選挙に任せられないとする多選制限論が主張されるのである。在職18年で逮捕された佐藤・前福島県知事は、「辞任の時期は各知事の判断と県民の批判的な判断に委ねられる」と主張していた。

◆多選を制限すべきもう一つの論点。

 それは、現在、地方の時代といわれ、地方分権が大きく進められ、知事の権限は更に大きくなろうとしているが、知事の権限をチェックする役割を負う県議会の権限は、制度上不十分であることだ。一例を上げれば、議会招集権は、議会にはなく知事が握っている。つまり、知事と議会が互いをチェックするという本来の二元代表性が機能していないのである。

 国は従来の考えを改めて、多選を制限する法律の制定を前向きに検討し始めたとされる。しかし、国の法律で一律に多選を制限するとなると、今度は地方分権を守る点から問題が生ずる。それぞれの地方が条例で多選を制限すること、法律は、それを後押しする、こういう方向が妥当なのではないか。

 岩手県知事は、先月末、3期で引退することを表明した。現在1期の神奈川県知事は、昨年多選自粛条例を議会で否決されたが、今度は、多選禁止条例を出す方向で準備を進めている。(知事の多選を正しく判断する気運の盛り上がりを願って。読者に感謝)

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

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2006年11月20日 (月)

10キロを、57分28秒で完走!(19日)

 半そでのシャツと短パン姿には身を切るような寒さである。雨をいっぱい抱え込んで辛うじて持ちこたえているような重く垂れ込めた雲の下、利根河畔の国体道路は、10キロコースのスタートを待つ人々でひしめいていた。私は前方の集団の中に立って足踏みをしながら寒さに耐えていた。5分前くらいになったとき、最前列のあたりにどよめきが起きた。アニマル浜口が現われたのだ。

 9時40分、アニマルのピストルでスタートは切られた。道幅いっぱいになって押し合うような人の群れが凄いスピードで走り出した。敷島タクシーを右折し、バラ園の裏手に出ても、まだ、後から後から多くの人が私を追い越していく。再び国体道路に出たが私の足は重かった。数日前の夜、全コースを走ったときは、このあたりで、リズムに乗れて楽に走ることが出来たのに。

 「スッス、ハッハ」「スッス、ハッハ」、私は、まわりのスピードにこだわっていると自分の調整が出来ないと気付き、目線を下げて前の走者の足下を見て走った。道一ぱいに広がっていた人々も、細い帯になっている。グリーンドームが見える頃、長蛇の先は遥か先の県庁舎の麓に流れ込んでいる。折り返した先頭の集団が北へ向かって走っていく。

 かなりの高齢者が走っている。今回の10キロコースの参加者の最高齢者は89歳とか。子どもがいる、若者がいる、若い主婦もいる。皆黙々と走っている。県庁舎を回って再びグリーンドームに近づくころ、人々の表情を見る余裕が出てきた。誰もが無言で必死に走っている。そこには、人々の日頃の生活態度が現われているようだ。マラソンに出る人は、日頃、節制し、健康に心がけているに違いない。自分の欲望を抑え良い生活習慣を求める人は、人生に前向きな人で、社会を支える健全な力であると思う。心の退廃が叫ばれる今日の社会で、多くの人がマラソンに参加し、歯を食いしばって走る姿は救いである。

 大渡橋が近づき、あと1Kmの表示が目に入る。苦しいが完走の自信はつかめた。残っている余力を振りしぼり、やや速度をあげる。グラウンドに走りこむとゴールが見えた。遂に来たと思った。一気にゴールをくぐる。達成感があった。両手を広げて「やったー」と叫んだ。健康で生きていることの実感を味わった瞬間であった。

 靴に縛り付けたチップが反応し、ゴールを通過する瞬間に直ちにタイムが分かる仕組みになっている。完走証を受け取ると、種目10Km男子、ナンバー10028、完走記録・5728秒、種目順位1375位とあった。不思議に思ったことは完走記録である。実は、昨年の記録は5727秒であった。自分の限界に挑戦し、体力は正確に数字となって現われたと見るべきか。手にした「完走証」は、私の体力と記録の保証書であるし、また、来年の県議選に向けて走るための証明書でもある。アニマル浜口と握手した。厚い手から気合が伝わってきた。(スポーツによる県民の健康を願って。読者に感謝)

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2006年11月19日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(23)「駒場の生活」

 家からの送金ゼロを当然と考えていた私にとって、落ち着く所は金のかからない寮より他は考えられなかった。簡単な選考基準をパスして駒場寮の住人となる。駒場寮は、明寮、北寮、中寮からなり、400人以上の生徒がすべて何らかのクラブに所属し、同じクラブの者が同室となる仕組みであった。

 私が弁論部に所属したのには、次のような経緯があった。新しく入寮する者は、所属がきまるまで、仮宿といって、空いている所へ適当に押し込められる。私の場合、それがたまたま弁論部の部屋であった。後で知った事であるが、仮宿で一度ある部屋に入ると、その部屋の住人とつながりが出来てしまって抜けられずに、そこに落ち着くことが多いのである。私の場合もこんな風に事が運び、弁論部の一員となってしまった。

 一部屋4~5人で、弁論部の部屋は四部屋あった。弁論部には、寮に入っていない人達も多くいて、全体としてはかなりの大所帯であった。

 弁論部といっても、声を張り上げて雄弁術を競うということはしない。時局の問題や学問上の問題などから多くの論点を拾い出しておいて、それについて、意見を発表したり、討論したりすることが多かった。

 寮に入った為に、弁論部に限らず、いろいろな人と付き合うこととなった。寮内の雰囲気、学園の様子は、私にとって新鮮であり、刺激的であり、また、ある意味では奇異に感ぜられた。

 前橋の田舎でダンゴを売って歩いていた時は、自分の意見をストレートに人にぶつけることなど滅多にない。相手の考えに反対であっても、曖昧に受け応えして相手の機嫌をそこなわないように気をつかっていたが、それと比べると、ここは全く別の人種の集まる別世界のように感じられた。仲の良い相手でも、考えが違えば議論して妥協しない。寮内でも、クラスでも、大学の構内でも、いたる所、議論をたたかわす渦があった。

 また、私が入学した年は、昭和三十九年であるが、いわゆる学生運動がまだ盛んな時期であった。ベトナム戦争、原子力潜水艦入港などをめぐって、駒場の構内は、各グループの立看板が林立し、アジ演説が飛びかい、活動家同士のトラブルが絶えなかった。これらの光景は、私の目には一層奇異に映った。

 いろいろな人と接する中で感じたことは、自分の勉強不足ということであった。田舎の特殊なところから出て来たのだから、囲りに追いつくにはうんと勉強しなければと自分に言い聞かせて頑張った。

 寮では思うように勉強できないことが多い。そんな時は夜、昼間は学生が使う本館教室へ行って勉強する。寮は大学の同じ構内にあるから、本館まで歩いてわずかである。物音一つしない夜の教室で一人本を読んでいると、定時制時代を思い出したりする。次回は、11月23日(祝)に掲載予定です。

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2006年11月18日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(22)「東京大学の概観」

 東京大学のことを赤門と呼ぶのは、前田斉泰が将軍家斉の娘と結婚するに当たり、朱塗りの門を作って迎えたが、この門がその後、東京大学の一つの門として使われ、その歴史的由来と国宝とされる程の立派さから有名となり、東京大学の象徴の一つと見られてきたからである。

 本郷三丁目で地下鉄を降りて本郷通りを進むと、まず赤門に、そして少しの間隔を置いて正門に出合う。赤門は、その周囲のアカデミックな雰囲気とマッチしながら、大学の歴史を今日に伝える役割を果たしている。

 東京大学は、その設立以来、日本の近代史の中心になって歩んだが、1947年(昭和22年)には新制の国立大学として再出発し、この年から女子に対しても門戸が開かれるようになった。

 そして、1949年(昭和24年)には、一高、東京高校を合併して、駒場の一高跡に教育学部が開設された。

 忠犬ハチ公で有名な渋谷から京王井の頭線に乗って、二つ目の駅、駒場東大前で降りるとすぐに、教養学部一号館の時計塔が目に入る。ここは、渋谷から僅かの距離で、私達は、渋谷で遅くまで飲み、道元坂、松涛町を通って構内の一角にある駒場寮まで歩くことがよくあった。

 東京大学は、文科一類、二類、三類、そして理科一類、二類、三類と分かれて試験を受け入学してくるが、これら全ての者が、1年2年の間は、この駒場の教養学部で学ぶのである。

 そして、3年からは、それぞれの専門の学部に進むが、その校舎は、先に触れた赤門のある文京区本郷のキャンパスである。もっとも、教養学部の教養学科だけは、3年、4年も駒場で学ぶわけである。

 各類と専門学部との関係は、大体次の通りである。即ち、文科系では、文科一類の者は法学部に、文科二類の者は経済学部に、そして文科三類の者は文学部と教育学部にそれぞれ進むのである。

 そして、文学部については、更に、第一類・主に哲学、第二類・史学、第三類・語学文学、第四類・心理学と分かれる。第二類の史学は、国史学、東洋史学、西洋史学、考古学等に分かれるが、私は、後に、この中の西洋史に進むことになるのである。

 理科系について説明すると、理科一類の者は主に工学部に、理科二類の者は主に農学部、理学部、薬学部に、そして理科三類の者は医学部に進む。

 この本郷のキャンパスは、西郷さんの在る上野の山から見れば、不忍の池をはさんだ対岸の丘にある。ここには、東大紛争で有名になった安田講堂、そして、三四郎池や銀杏並木などがある。明日の日曜に続きます)

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2006年11月17日 (金)

「警察への不信、これも社会崩壊の象徴か」

現職の警察官が郵便局強盗容疑で逮捕された。他の二件の郵便局強盗も自分がやったと認めている。県内で起きた事件だけに私たちの衝撃は一層大きい。しかし、私たちが恐れることは、警察官への不信故に警察力が低下することだ。「警察官は信用できない」、「警察に協力するのは馬鹿らしい」、「警察官だって悪いことをやっている」こんな巷の声が聞こえてくるようだ。

 群馬県では、犯罪防止推進条例が出来、治安に対する民間の協力が進み、官と民が力を合わせた結果、犯罪認知件数が大きく減ったといわれている。しかし、犯罪の発生率そのものは、依然として多いのである。だから、今後の課題は、犯罪の発生数そのものを減少させて良好な治安を確立させなければならないことであり、そのカギは警察官に対する信頼の回復である。これらの事が叫ばれている重要な時に警察官の不祥事が続くのは誠に残念である。

 警察官も人の子、現実の社会の流れの中で生きている。おかしくなっている社会の影響を受けるのは無理もないとも言える。連続郵便局強盗で逮捕された警察官は、消費者金融などから多額の借金をしている「多重債務者」だった。また、聞くところによれば、地域の評判もよく、警察官としても優秀であったという。

 なぜ、このような普通の警察官が、いくら多額の借金とはいえ、その解決策に、こともあろうに強盗を選んだのか不思議でならない。群馬県警は、この警察官が埼玉県警の者だったことにほっとしている一面があるかも知れないが、それは間違いだと思う。人々は、全ての警察官を評価する材料としてこの事件を見るからである。また、今日の複雑で、道徳的に退廃した社会で育ってきた人間として警察官をとらえるなら、警察官の不祥事は常に発生の可能性があるものとして対策を考えねばならないのではないか。今回の事件を警察官問題に対する警鐘として受け止めるべきだ。

◆警察と同様、教育の世界も大変である。学力低下が叫ばれていたが、今はそれどころではない。「必修漏れ」が嵐のように全国の教育界を揺さぶり、これに追い討ちをかけるように、「いじめ」と「自殺」の問題が暴風のように吹き荒れている。私は、地方の「教育」が、見識と決意と実行力を試されている時だと思う。

 学校の現場は、何か問題が起きると、マスコミを恐れ、体面を気にして、狼狽(ろうばい)し、混乱してしまう。だから、教育委員会の役割は、指針を明確に示し、現場が拠所(よりどころ)とするものをはっきりと掲げることである。自己中心的で、何かというと教師にいちゃもんをつけるような父母が多い。「いじめ」や生徒の「自殺」は乱れた社会の反映である。教師が萎縮していては、何も解決出来ない。教委の形骸化も指摘される今日、教委は、現場の教師を厳しく、そして温かく支援して欲しい。

(治安と教育が健全化することを願って。読者に感謝)

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2006年11月16日 (木)

多選問題は想像以上に大きく動いている

 多選自粛の条例案の動きを長野県、埼玉県、神奈川県について見てみたい。結論から言うと、この中で埼玉県議会が条例を可決した。これらは、全て、最近の知事の不祥事発生以前のことであることを頭に置きたい。

◆先ず、長野県。最長3期12年という条例案を知事が提出。長野県議会では02年継続審意にし、03年廃案となった。田中知事は、この年、再度提案したが総務委員会は知事案を大差で否決、次いで本会議で、この多選自粛条例は遂に否決された。田中知事と議会が正面から対決していた時であり、自粛条例が正面から深く議論されたのか気になるところだ。

◆埼玉県の場合、04年、上田埼玉県知事は、多選自粛条例案を提出し、政策委は全員が賛成し、8月3日、遂に県議会は可決した。県レベルでは全国初の出来事である。

 この条例は、「埼玉県知事の在任期間に関する条例」と称するもので二ヶ条の条文から成る。多選を制限する趣旨がよく分るので、全文を紹介する。

(目的)

第一条

「この条例は、知事が幅広い権限を有する地位にあることにかんがみ、知事の職に同一のものが長期にわたり存在することにより生ずる恐れのある弊害を防止するため、知事の在任期間について定め、もって清新で活力のある県政の確保を図ることを目的とする。」

第二条

「知事の職にある者は、その職に連続して三期を超えて存在しないよう努めるものとする。」

「努めるものとする」という点に、「禁止」条例ではなく「自粛」条例としたゆえんがある。「禁止」とすることは、憲法上の疑義があるという総務省の見解があったからである。最近は、総務省も、見解を代えたとも伝えられる。

◆神奈川県の場合。松沢知事は、05年12月議会に、任期は最大12年とする多選自粛条例を提出したが否決された。そして、再提出を表明している。

◆政令指定都市では、03年(平成15年)に、川崎市が、「市長は最長3期まで」とする多選自粛条例を可決した。その第一条には、川崎市の新鮮な思いが表現されている。

「この条例は、民主的で能率的な行政の確保及び行政に対する市民の信頼の確保が基本となる地方公共団体において、幅広い事務に関する権限が集中する長の地位に、一人の者が長期にわたり就くことにより生じる恐れのある弊害を防止するため、市長の在任の期数について定め、もって清新で活力に満ちた市政運営を確保し、その硬直化を防ぐことを目的とする。」

 昨日(15日)、今度は和歌山県知事が逮捕された。知事の不祥事は止まるところを知らぬようだ。これに合わせて多選自粛の動きも加速するだろう。冷静に見守りたい。

(「多選」を考える世論が盛り上がることを願って。読者に感謝)

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2006年11月15日 (水)

奈良市の病欠元職員は逮捕された

 6日の「日記」で触れた奈良市の元職員は、5年間で8日間しか出勤せず、給料は、ほぼ満額もらっていたが、この程、職務強要罪で逮捕された。この男は、市の入札担当課を訪れ、長時間、机をひっくり返すなどして抗議行動を行ったが、これが、入札制度の改革を行わせないための暴行・脅迫、つまり職務強要に当たると判断されたもの。この元職員は、同和運動の活動家であったといわれる。 この事件が報じられて間もなく、同和運動にたずさわる何々という者だがと名乗る男から電話があった。同和運動の何十年記念とかで浅草彈左衛門の本を出版したから一冊買ってくれという。要らないと言うと、いろいろ理由をあげて執拗(しつよう)に迫る。買うつもりはないときっぱり断ると、男は、「同和問題に協力する気はないのか、よく覚えとくぞ」捨てぜりふとも取れる言葉を残して受話器を置いた。嫌な感じであった。奈良市の事件といい、この電話といい、本来の同和活動のイメージを傷つけている。誠に残念である。議員をしているとこのような電話がよくあるが今回のように脅(おど)しめいた口調のものは珍しい。 ◇知事の不祥事が続発し、多選の弊害が問題にされている時に福島県の知事選が行われた。談合と汚職で辞任し、その後に逮捕された佐藤栄佐久氏前知事のあとを決める選挙だった。前知事は、5期目という長期政権の中で腐敗が進んでいたとされる。選挙の結果は、民主党が推薦する佐藤雄平氏が当選した。 これまで、最長の期数は5期目で、全国に二県の知事が存在したが、福島県がなくなったので残るは、島根県のみとなった。小寺知事は、来年5期目に挑戦するというので、全国の注目が集まっているのである。◇知事や市長の「多選」に関する問題は、民主主義、地方自治の根幹に関わることなので、感情論に走らずに冷静に筋道を理解して判断することが重要である。私は、このような観点から今後おりに触れこの「日記」で情報の提供につとめたいと思う。 ◇先ず、私の友人である阿部孝夫川崎市長の動きを伝えたい。阿部市長のリーダーシップのもと、川崎市議会は03年7月、多選自粛条例を制定した。 実は、今年10月、松沢神奈川県知事、中田横浜市長、阿部川崎市長は、首長の多選禁止条例を円滑に制定できるようにするため、国に法改正を求めることで合意した。多選の禁止については、憲法が立候補の自由を認めていることから、総務省は、これまで、条例で禁止等制限を定めることは、「公選法にふれるおそれがある」との見解を示していた。そこで、これまでに成立したいくつかの条例は、「三期を超えて存在しないように努める」といった「自粛」条例にとどまっているのである。阿部さんは、「自治体が自由に禁止条例を制定できるようにしたい」発言している。具体的な条例は、改めて紹介したい。(健全な地方自治体の実現を願って。読者に感謝)

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2006年11月14日 (火)

校長の自殺は情けない

 今度は、北海道のいじめ発覚の小学校校長が自殺した。校長は命の大切さを子どもたちに教える最高の責任者でなはいか。自ら命を捨てることは、普段言っていたことの逆、そして、最悪の手本を自ら示したことになる。

 教育の目的は、子どもに生きる力を身につけさせることである。最近、政府も、教育改革の目的をこのように位置づける。一人一人の人間を大切にすること、つまり人間の尊厳の確保を最高の価値とする日本国憲法の下で、教育の目的を一人一人の人間が幸せになる手段、つまり生きる力の養成ととらえることは、当然の帰結だと私は考える。

 死を選ぶことは、生きることの放棄である。だから、生きる力を育(はぐく)む上で最も大切なことは、死を選ばないで耐えて生きることである。このことを教える学校の責任者が死を選ぶことを、私たちは、どう理解したらよいのか。

 校長の自殺が三人続いた。これらの校長は教育の意義を自覚していなかったのか。何とも情けない。子どもに命を大切にしろと教えようとしても、子どもの耳に空々しく響くだろう。「一生懸命勉強しなさい」と子どもに言って、「何のために勉強するの」と問い返された時、先生は、何と答えたらよいのか迷うのではないか。子どもの自殺を考える前に、校長の自殺の意味を考えるべきだと言いたくなる。

◆子どもの自殺が続いている。福岡県の中2男子の自殺以来、生徒の自殺が続く。埼玉県本庄市では中3の男子生徒が納屋で首をつって死んでいるのが見つかった。また、大阪府では中1女子が飛び降りと見られる自殺をしているのが発見された。

なぜこのように自殺が続くのか。悩む子どもの頭に、いくつかの解決策の選択肢が浮かぶ、その中の一際異彩を放つのが派手に報道されている同年代の自殺であり、ついひかれてつかんでしまう、このようなこともあるのであろうか。

子どもの世界の出来事は、社会の反映である。社会が病んで狂い出していることの表れではないか。時代を担う子どもたちの自殺が象徴することは、社会の崩壊である。

◆「母親が我が子を殺すのか」

社会の崩壊を象徴するような別の事件が発生した。秋田県大曲で起きた母の子殺しである。秋田県の事件といえば記憶に新しいのが藤里町の事件である。畠山鈴香という女が娘の彩香ちゃんを橋から投げ落として殺した事件である。私は、秋田にいて、85日の「日記」で「人の心の変化はこの東北の地にもおよんでいるのか」と書いた。今度は、進藤美香という女がその子である4歳の男児を殺害したという容疑である。大曲は、藤里町の南約95キロの花火で有名な所である。

社会の崩壊に私たちはどのように立ち向かったらよいのか。こう思うとき、群馬で現職警察官の郵便局強盗事件が起きた。正に世も末である。(健全な社会の回復を願って。読者に感謝)

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2006年11月13日 (月)

 「グリーンドームの集いは盛会だった」(10日)

 多勢の人に集まってもらうのが難しい時代であるが、満堂人であふれた。来賓の挨拶等の儀式は極く簡略にした。その中で、大澤議長の登場は大きな注目を集めたようだ。それは、前日、知事選候補に決まり正式に表明したばかりだから当然ともいえるが、そればかりでなく、多選の弊を現す事件の多発と多選そのものを批判する声が大きくなっていることの影響もあると見た。

 自民党は、9日、多選制限の方針を打ち出した。それは、四選以上は推薦しないというものである。四選を目指す麻生福岡県知事と五選を目指す小寺知事が全国の注目を集めるだろう。

 グリーンドームの大会は、映像で私の政治生活を振り返る部分に25分をかけ、全体は予定通り70分で終了した。私がシナリオを作り、ナレーションを入れた作品は、おおむね好評だったようだ。5m×6mの大スクリーンには、最初の旗揚げの時にかけつけてくれた林元東大総長の演説風景、当選で抱き合う支援者、ニューギニア巡拝や南来県人会訪問の光景、79代議長選出の場面等々が映し出された。これからは、政治の集会も、巧みに映像を使う時代になるのではないかと思った。

 めっきり寒くなった。昨日(11日)は、午前七時半の元総社のソフトボウル大会の開会式は、忘れていた寒風が身を切るようであった。手短かに挨拶して、城南の市民球場へ向かう。少年野球のボーイズリーグの開会式が午前8時である。前橋の西の端からかなり距離があるが、渋滞はなく、信号機も協力してくれるように次々青となり、各チームの行進が終わらないうちにつくことが出来た。エイ、エイ、とかけ声を上げながら進む少年たちの姿は健全そのものに見える。私は、行進を見ながら、全国で吹き荒れる、いじめや自殺など、教育の荒廃を思った。子どもの世界は複雑なのだ。スポーツで心身を鍛えて強い子もいれば、豊かさの中でモヤシのように育てられた心の弱い子もいる。総じて弱い子が多いに違いない。子どもの弱さを非難するのでなく、弱さを認めた上で、それを救うことを考えねばならないと思う。

◆土曜日の夜、10キロのコースを完走した。今年も県民マラソンが目前に迫った。19日、私は、例年の通り、10キロコースを走るのだ。毎年1時間以内で完走している。現在、体重がややオーバーになっているが、昨年の本番より楽に走ることが出来た。毎年の「走り」は、健康と体力と気力のバロメーターである。私は、先月30日、満66歳の誕生日を迎えたが体調はまだまだ若い。暗い道を昨年のことを思い出しながら走った。昨年の「日記」には、足が重く苦しい、美しいボディラインの娘がポニーテールをゆすりながらすり抜けてゆく、快い風のようだ、あえぎながら走りこんで、タイムは5727秒とある。(スポーツを通して県民の健康が増進することを願って。読者に感謝)

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2006年11月12日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(21)「東大受験を決意」「私の東大時代」

 私は大きな壁に突き当たって悩んだ。体にも疲れを感じるようになった。お得意先でダンゴを並べている時も、立っているのが苦しい程、背中が痛む。家に帰り、畳の上にうつ伏せになって母に背中を踏んでもらうと心地良い。しかし、やがて踏んでもらわないとがまん出来ないようになり、毎日こんなことを繰り返すようになった。

 強気の私も、不安と焦りを感じるようになった。東大に入れれば良いが、という心境から、何としても入らねばならぬ、もう後がないという心境へ。そして、身体もおかしくなってゆくことによる恐怖にも似た心境へと追い込まれていった。しかし幸いなことに、こんな追い詰められた私にとって救いの神が現われたのである。

 私の弟、賢三は中学生であったが、身体も大きく、中学一年の頃から仕事を手伝っていたから、中学三年の頃はもうダンゴ屋も一人前であった。この頃、私の家は、また総社町山王から西片貝一丁目に引っ越して、賢三は桂萱中学の三年生であった。賢三は、私の片腕となって実に良く働いた。

 ダンゴ屋というのは、朝早くから働く仕事である。毎朝四時ごろから仕事をして学校へ行くから、賢三は学校でいつも居眠りをしていたらしい。しかし、成績はかなり上位であったから、周囲も、高校へ進むと見ていたであろうし、本人もそう考えていた。この賢三が、「兄ちゃん、俺は定時制に行くから勉強に専念しろよ」と言ってくれたのである。

 事態は少しずつ、好転しつつあった。引っ越して、環境が変わったせいか父の心臓ぜん息もピタッと起きなくなり、父も多少働けるようになった。末弟の秀雄もよく家業を手伝うようになった。私がもっと仕事に専念すれば、家族はもっと楽になるのに申し訳ないと思ったが、今はただ、前に進むのみと自分に言い聞かせ、私は悲壮な決意で、予備校、英数学館の門を叩いた。

 英数学館の一年間は、密度の濃い、思い出に残る毎日であった。毎月の模擬テストは、何としても上位の成績をとろうと工夫を重ねた。ある時、勉強の方法に迷いが出て、東大の駒場寮まで出向いて、東大生に勉強の体験を聞く、ということまでした。

 このような努力のかいあって、翌年、念願の合格を果たすことができ、私は、東京大学文科三類に入学した。このことは、勤労学徒の模範だとされ、朝日新聞に、家族との写真入りで大きく報道されたりした。こうして、私は、長く暗いトンネルを抜けて、全く未知の世界に踏み込むことになった。

 「私の東大時代」

 私の東大生活を書くに先だって、東京大学の姿を概観してみたい。

 東京大学の起源は、徳川幕府の学問所である昌平黌、そして、同じく幕府の研究所である洋学所まで遡るといわれるが、明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併して、加賀百万石前田家の江戸屋敷跡に、わが国最初の大学として東京大学が誕生したのである。(次回は11月18日(土)に掲載予定です)

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2006年11月11日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(20)「東大受験を決意」

英語と国語は驚く程のこともなかったが、問題はやはり数学であった。大きな問題が5問、それぞれに四つの小問があった。一つ一点で、15点位がボーダーラインと聞いていた。4問までは無我夢中であったが、手応えもあった。いわゆる三角方程式というやつで、sin xcos yなどから成り立っている連立方程式である。

 これを見て、それまでは何とかなると思って進めてきたのに、ああ、これで駄目か、と思った。しかし、気を落ち着けて考えてみると、Ⅹ,Yの値は、30度、45度、60度、あるいは90度と言った特定の角度である可能性が強いと気付いた。そこで、最後の五分間、必至の思いで、サイン30度なら1/2、コサイン45度なら1/2と、あてずっぽうに当てはめていった。一次の試験は答えだけが求められ、式は要らないのである。連立方程式にちょうど当てはまる数字が見つかった時、カランカランと終わりを告げるカネの音が聞こえた。兎に角、終った。全力を出しきった快感と興奮に浸りながら私は前橋へと急いだ。

 私の留守の間、家では代わりに妹の恭子がバイクでダンゴの配達をしたりで大変であった。一次は、幾日も経たずして発表になるから、普通の受験生は宿舎に留まって結果を待つのである。しかし私には、そのようなことは許されない。発表の日も、朝の仕事は済ませて上京した。

 発表は駒場のテニスコートに番号をはり出して行われる。落ちる気もしないが、合格するとも思えない、複雑な気持ちであった。テニスコートには、発表の時間はとうに過ぎ、もう人は去って誰もいない金網に受験番号を書いた白い紙の張られた板が付けられている。胸が高鳴り、心臓の音が聞こえるようである。私の視線は、数字の列の上を突き刺すように走る。

「あった」

 私は、声を出して叫んでいた。自分の番号を見つけてみると、改めて、信じられないことに思える。東大が俄にての届くところに来たように思えた。しかし、そんなに甘いものでないことを間もなく思い知らされることになる。

 二次試験の数字は、五題出て、二題解くのがせいぜいであった。英語の問題も私の実力を超えていた。予想通り、二次試験の結果は不合格であった。しかし、手応えは十分に握ることができたと思えた。理科ニ科目、社会二科目も、時間をかければ必ず征服できると思えた。

 定時制も終了となり、夜の時間は以前よりも有効に使える。私は勇気百倍の思いで勉強に打ち込んだ。仕事のほうも一生懸命やった。お得意先でも、お兄さん頑張れよ、と励まされるようになった。ようし、俺は見事仕事と勉強を両立させてみせる、と私はなお極めて強気であった。しかし、その次の年も、一次合格、二次不合格であった。(明日の日曜日に続きます)

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2006年11月10日 (金)

知事候補決定の日のドラマ

 昨日の午後は、慌ただしかった。知事候補決定に向けての動きである。一時から、常任役委員会、議員団総会、総務会、選挙対策委員会と続いた。総務会には、自民党の各地の支部長も出る、そして選対委は、更に輪を広げて自民党の役員が出席する。私は、全部に出たので忙しかった。

 全ての会で大澤正明氏が知事候補として認められた。最後の選対委員会の時、ちょっとした珍事があった。大澤正明氏を知事候補と決定することに満場の拍手が起き、続いて、笹川県連会長が、全会一致で大澤正明氏を知事候補として決定します、と言いかけた時、「待った、反対だ」と声があがった。満場の視線を集めたその男は、元県議の菅野義章氏であった。「私は、反対なので全会一致にしないでくれ」というものであった。私は、相変わらずだな、と懐かしい気持ちを心の隅に抱いた。 

菅野氏は、県議時代も名物の男だった。特異のキャラクターがストレートに表に出るので、誤解も受けたようだが、熱血漢で正直である。私とは長いこと宿命の対決とも言われた間柄だった。選挙の地盤が密に重なっていたからである。彼は当選と落選を繰り返していたが、落選していた時、地元の葬儀に片端から出て弔辞を読む姿には鬼気迫るものがあった。ある時、ふとしたことから心を通わせる仲となった。菅野氏の屋敷を訪ねると、命を捨てることを惜しまぬ男とか、西郷隆盛の子分というようなことが墨で大書してある。県議会でも、一般質問で、ポツダム宣言を英語で読む程の勇気があった。気の毒なことに、脳梗塞で倒れたことがあった。すさまじい忍耐と努力でリハビリし立ち上がってきた姿には敬服する他ない。昨日、私が近づいてどうしたんですかとたずねると、「俺は小寺さんに応援すると約束したんだ。」と言って笑った。

昨日は、私の事務所は、戦場のように忙しかった。グリーンドームのイベントの前日だったからである。初めは、人が集まるか不安であったが、23日前の集計により、座席が不足する不安に変わった。色々な分担を受け持つお手伝いの人々は100名を超える。ラッキーなことに妻の頭痛もおさまっている様子だ。所要時間は、短くして70分以内にすることにした。お年寄りなどへの配慮である。中味のメインは、映像による「振り返る」だ。私は何回もシナリオに手を加えた。ナレーションも練習を重ねた。良い集いになると思う。

 昨日、立候補を表明した大澤議長は、今日の私の集いに出席する予定だ。風邪をひいているらしく、悪化すれば出られないかもしれない。明日は、ニューギニアへ向けて慰霊巡拝の旅に出かけるから大事にしなければならないのだ。天気もよし、今日は、私にとって重要な日、全力を傾けようと思う。

(晴天のような県政の実現を願って。読者に感謝)

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2006年11月 9日 (木)

アメリカの中間選挙の意味するもの

 選挙の開票結果を迎える時の緊張と興奮は経験したものでなければ分らない。アメリカの中間選挙の悲喜交交(こもごも)の光景を、私は自分の経験と重ねながら見た。

 アメリカ議会の下院の選挙で、ブッシュを支える共和党は敗北した。野党の民主党が躍進し、下院で過半数の議席を制したのだ。この選挙では、イラク問題が大きな争点になっていたのだから、イラク戦争を推進してきたブッシュの共和党が敗北したことは、アメリカ国民の多くがイラク政策の転換を求めたことを意味する。最近のアメリカの世論調査では、イラク戦争が誤りだったと考える人が55%にのぼることが報じられていた。

 アメリカのメディアは、「アメリカ全土で変化を求めた」、「国民はイラクにノーを示した」等報じた。また、上院選で大勝したヒラリーは、「皆さんが改革のために立ち上がったことに感謝、そして神の加護に感謝」と支援者に訴えていた。また、イラク、バクダットのある市民は、「アメリカの国民は、アメリカのイラク政策の間違いにやっと気付いた」と話していた。

 アメリカのイラク政策は徐々に、そして大きく変わっていくだろう。それを可能にする力は国民の投票行動である。それを見て、アメリカの民主主義が健在であることを感じた。しかし、間違った政策で失われた無数の命は戻ってこない。地上で最強の武力を持つ国はその行動に最大限慎重でなければならないことが、今回のアメリカのイラク政策の失敗から得られる大きな教訓である。

◆家庭がモラルを失っていることを象徴するような事件が続いている。先日(1023日)の「日記」では、福岡県の一家4人が共謀して母子ら4人を殺害した事件に触れたが、今度は、母親が先頭に立って3人の子どもと窃盗に侵入した事件が報じられた。家庭にモラルがなくなっていることを象徴する事件だ。家庭で子どものしつけを行う母親の役割は特に重要である。母親が子どもの先頭に立って、泥棒をすれば、犯罪に抵抗感を持たない、そして、倫理観念の全くない子どもが育つだろう。日本の社会は、見えないところで不気味な崩壊を始めているのか。

◆「赤ちゃんポスト」のこと。親が育てられない子どものことは社会の重大問題である。私は、通称「かけ込み寺」の理事として、不幸な子どもに接してきた。動物にも劣るような親に腹を立てたこともある。

 子育てが出来ない親の為に、親が乳児を託す「赤ちゃんポスト」を熊本市の病院が始めるという。病院側は、望まれない子どものため、また、若年層の中絶防止のためと説明している。安易な妊娠を増やすとか、「子育て」など親の無責任性を助長するといった心配の声も聞かれる。新しい世の中の動きを注目したい。

(健全な家庭が復活することを願って。読者に感謝)

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2006年11月 8日 (水)

フセインに死刑判決、シーア派・スンニ派とは

 イラクのフセイン元大統領に死刑判決が下った。シーア派を多数殺害した罪である。そこでシーア派とは何か、多くの人が分らないという。また、この死刑判決が、苦境に陥って苦しむブッシュ大統領にとって助けになるとされるがこの点も良く分らないという人が多い。

 イスラム教内には、スンニ派とシーア派の対立がある。スンニ派は正統派と呼ばれ、全イスラム教徒の9割を占める。シーア派は分離派、又は異端派とも呼ばれる。シーア派の中心地はイランであるがイラクにも存在し、フセインは、このシーア派を弾圧し多くを殺した。

 01年のニューヨークの同時多発テロの元凶をイラクと見なしてイラクの攻撃を始めたアメリカは、フセインのスニン派に迫害されるシーア派と当然に手を組むことになる。フセインに死刑判決を下した法廷もアメリカに後押しされたシーア派の裁判官で構成されたものであった。だから裁判の公正が問われている。そして、この判決は、イラク国内の両派の対立を煽る要素となりそうだ。

 一方、アメリカのブッシュ政権は、イラク攻撃の失敗が批判されて窮地に立たされている。イラク攻撃を正統化してきた大量破壊兵器は遂に発見されず、イラク攻撃はする必要がなかった、間違っていたと指摘されブッシュの支持率は30%台に落ちたからである。

 そして、アメリカでは、今正に中間選挙が行われるときに当たっており、イラク問題が最大の争点になっている。この選挙には、ブッシュの共和党に対立する民主党から、イラク戦に参加した人たちが多く立候補し優勢が伝えられている。

 この選挙の投票日の直前に合わせたようにフセインの死刑判決が出た。イラク政府が自らフセインを極刑にしたことは、イラク攻撃は正しかったことの証明になるというブッシュ政府の読みがあったのではないか。

 死刑判決を下した裁判長に対して、フセインは、右手を振り上げ、お前は米国の家来だと叫んだ。事実、米当局は、法廷に50人以上の顧問団を送り込み、法廷の映像はチェックして許可部分だけ配信を認める等、露骨な介入をしたらしい。

 このような、なり振りかまわぬ米政権の努力にもかかわらず、中間選挙の行方として、ブッシュ政権、共和党の敗色が濃くなっていることが伝えられている。イラクで両脚を切断した義足の元女性兵士が民主党から立候補して善戦している姿がテレビで報じられた。

 イラク戦は「泥沼」と表現されているが、連日伝えられる状況は、正にこの世の地獄だ。超大国アメリカが底なしの泥沼に引き込まれようとしている。ベトナム戦争の時の失敗をまた繰り返すのかという思いだ。大きく傾いたアメリカという船を転覆から救う復元力は、アメリカの民主主義である。アメリカの救いは民主主義である。この文を書いているときにも民主主義の実践たる中間選挙の結果が現われ始めるだろう。日本は同盟国である。アメリカの民主主義の動きを見守りたい。

(イラク戦争の終結を願って。読者に感謝)

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2006年11月 7日 (火)

全体の自殺者は減ったが

 毎年3万人を超える自殺者が出ていた。ピークは、03年の3万2082人。厚労省の調査では、今年4月、3年4ヶ月ぶりに3万人を下回り、2万9808人であった。内閣府は、自殺が減ったのは経済状況の好転により、経済的な理由で死を選ぶ人が減っているのではないかとみる。

 自殺者が減ったというのは朗報だが、依然として異常な数の人が死を選んでいる。自殺ということで一からげに論じられるが、死を選ぶ一人ひとりにつき、深刻な地獄のドラマがあるに違いない。

 人間を大切にすることを国是とする日本で、一人の人間の究極の悲劇というべき自殺を防止することは、国にとっても社会にとっても最大の課題である。今年は、そのために、自殺対策基本法が出来た。このような法律が出来ること自体、有史以来の異常な事態というべきだ。

 ◇自殺の中で、いじめによる自殺は、子どもの教育に関わる問題だけに一層深刻である。このブログでも先日取り上げた福岡中2男子の自殺は、教師のいじめが原因かといわれ、大きな波紋を広げている。教師の軽率な言動が子どもの胸をえぐる刃になることを教師は自覚しなければならない。

 教師が特に注意しなければならないのは差別したり、人間としての価値を傷つけるような言動である。学校は、子どもたちにとって厳しい競争社会である。子どもたちが競うのは成績だけではない。自分の存在がまわりから少しでも高く評価されるために必死であり、自分の位置づけに過敏な程である。クラスでどのように評価されるかは、子どもにとっては生存にもかかわることと言っても過言ではない。仲間から低く評価されれば教室にいずらくなり不登校にもなる。教師の差別的発言は、クラスでは、決定的な重みをもついわば天の声だ。公認のレッテルが貼られたような意味をもつに違いない。

 福岡中2男子のケースの場合、「出荷出来ないイチゴ」などの発言は、正に差別である。少年の心にグサリと刺さるだけでなく、他の生徒のいじめ心の火に油を注ぐ効果があったことだろう。報道によれば、同級生は、先生がからかうようなことをしているから自分たちもしていいと思ったと発言しているという。また、からかった複数の同級生は、自分たちの言葉が原因で死んだのかと気に病んで、遺族に告白し謝罪した。遺族は、これを勇気のある正直な態度と受け止めて、責めなかった。暗闇の中の明りのように救われる光景だ。

 教育界は、いじめの調査や責任論で騒いでいるが、この機会に生と死の意味を子供たちに考えさせるべきだ。中2男子の将来には、世界旅行、恋、結婚、社会への貢献等限りない可能性があった筈。それらを全て切り捨てて選ぶ価値が「死」にはあるのか。自殺は大きな判断ミスであることを子どもたちに教えねばならない。ここでまた、悪い手本、校長の自殺が発生した。やりきれない気持ちである。

(学校から自殺がなくなることを願って。読者に感謝)

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2006年11月 6日 (月)

5年間に8日の出勤で給与満額とは

 驚く様な事件が起きると連鎖反応のように同種の事件が起きる。それは偶然のようであるが、実は、同じ病巣が隠れていて、ちょっとした刺激で表面に顔を出すという現象なのだろう。だから、自分の足下はどうかという意識で事件を見詰めることが必要である。

 大阪市と奈良市で起きた同和運動関係者が起こした事件がそれだ。8月末、大阪市では、駐車場の管理をめぐる同和運動幹部の大規模な横領事件が発覚した。そして、大阪市は、関係した職員約100人を処分したのである。

 ところが、それから間もなく、9月になって、奈良市でも同和がらみの事件が発覚したのだ。それは、市の職員が5年間で8日間しか出勤せず、ほぼ満額の給与をもらっていたというのである。この職員は、この間、32回も、病気休暇を取っていた。これには、胃潰瘍、腰痛、ヘルニア、座骨神経痛など12種類の病名の診断書を提出していたという。

 上司や給与担当の職員がその不自然さに気付かぬ筈はないだろう。診断書を書いた医師の責任も問題になる。判明したことは、この職員は部落解放同盟の支部協議会の副議長で、休職中も活動していたこと、又、妻が経営する建設会社のために威圧的に市に働きかけて市の仕事を取っていたことなどである。このことからすれば、おかしな病気休職を許したことも、この職員が同和の活動家であったことと関係があると見られても仕方がない。

 奈良市では、緊急に調査した結果、他に、2名の職員に疑わしい点があることが分かった。一人は4年間に1日しか出勤していない、そして他の一人は、5年間に186回の不自然の病気休暇を取っていたというのだ。本県、及び各市町村で疑わしい事例がないか調べる必要があるだろう。

 「同和」の運動は被差別部落の解放、つまり、いわれなき人間の差別をなくすことを目的としたもので、人権を尊重する我が国においては、重要なものである。同和運動にたずさわる人が運動にからんで不祥事を起こすことは、本来のこの運動の為に不幸なことである。不正を黙認した公務員は、人権尊重を推進すべき職務に反したというべきで責任は重い。

◆禁煙車、県庁や県立病院で実現しては。

生活習慣病の重大さが叫ばれているが、健康に害のある生活習慣の最たるものが喫煙だろう。頭痛持ちの妻はタクシーに乗る時、タバコ臭いのが困る、病院は禁煙車だけに限ればよいのにと言っていたが、そういう病院が実際に出てきたらしい。病院前の客待ちタクシーを禁煙車に限るというもの。ある研究では、車内で一人が喫煙すると粉塵濃度は通常の12倍になる。病院は、そこまで患者のために気をつかうことが大切だ。本県でも先ず県立病院で模範を示し、それが他の公立病院に及べば良い成果が期待できる。私から病院局に提案してみたいと思う。

(健全な同和活動の発展を願って。読者に感謝。)

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2006年11月 5日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(19)「東大受験を決意」

連載(19)「東大受験を決意」

ある教師がこんなことを話したことがあった。それは、夜間部で一番の者も、昼間に行けばビリだろうというのである。前高のレベルの高さを言いたかったのであろうが、複雑な心理を抱く私達の前でこのようなことを言う教師の心を、私は理解できなかった。よし、それなら見ていろ、と私の心は逆に燃えるのであった。

父との確執、仕事と勉強を両立させる悩みなどいろいろ抱えながら、いよいよ東大の受験を迎えることになった。文科1類に願書を提出、一次試験は3月の初めで科目は英、数、国の三科目であった。

試験の前日の朝、ダンゴの仕事を早めに終えて上京し、浅草山谷の簡易旅館に泊まる。ある程度話に聞いていたので驚かなかったが、おそらく、あれが一生に一度の体験になるだろう。下駄箱はなく、靴は自分で持って枕元へ置くのである。薄暗い部屋には、畳一畳を入れた木の枠が壁に沿ってぐるりと作られ、そこに薄い蒲団が敷いてある。木の枠は二段になっていて、上に登る小さな梯子が付いていた。

学生服を着た客は珍しいらしく、兄さんはどうしてここへ泊まるのかと土木作業員風のおじさんたちが訊く。明日、東大の試験を受けに行くのだと答えると、驚いている風であった。

風呂はタイルの張られないザラザラのコンクリートの浴槽で、おじさんと一緒に並んで入り、一日の汗を流した。

ベッドに戻ると一斉に電気を消され、あとは廊下から漏れる薄明かりの中で、何人かがぼそぼそと話をしていたが、昼間の疲れの為か間もなく皆静かになった。明日のことを思うと、心がときめくが、私も間もなく眠りにおちた。次ぐ朝、宿を出る時、同室のおじさん達が、兄さん頑張ってな、といってくれたのがとても嬉しかった。

試験の会場は本郷である。広い構内を全国から集まった受験生が埋めていた。誰の目にも緊張感がみなぎり、構内は興奮が高まっていた。私は、三四郎池の木陰に腰を下ろし、定時制での勉強やダンゴ売りのことなどを思い浮かべながら、とうとうここまで来たという感慨に浸っていた。

英語は長い文章で、その中に空欄の括弧がいっぱいあって、そこを適当な語で埋める問題が中心であった。国語は、誰か女流作家の随筆が出て、わりかし楽に中味に入り込むことができたという感じであった。(次回は11月11日(土)に掲載予定です)

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2006年11月 4日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(18)「東大受験を決意」

連載(18)「東大受験を決意」

私は、別にいい気になっていたわけではないが、眠い目を擦りながらじっと耐えている仲間の中には、鞄を抱えて出て行く私に反感をいだく者もいたに違いない。

気狂いのように、一筋の道を進むことは意外な成果を生むものである。英語は山崎貞の英文解釈の研究、数学は森繁夫の数Ⅰ、数Ⅱの研究を何とか八分通り征服した。なぜ、この本を使ったかと言えば、石田道夫の案内書に、東大受験生は、多くの者がこれを使うと書いてあったからである。

後に、受験生を指導する立場に立って、勉強の方法について聞かれたり、実際、いろいろな受験勉強に取り組んでいる人と接して思うことは、ベストの勉強方法、つまりこれをやれば労少なくして成果を上げられるという意味の最良の方法などはあり得ない、大切なことは、自分の決めた方法をやり抜くことだ、ということである。ほとんどの受験生が、参考書を取り替えたり、勉強の方針について迷ったりして、一貫性のないことをやって、同じところをぐるぐるまわっているように見える。

私の場合、参考書でも、勉強の方法でも、選択肢はほとんどなかったから、これと決めたことを信じてやり抜いたのである。だから、暗闇の中を手探りで走っているようで、実は一番近道をかなりのスピードで走っていたのかも知れない。

英語については、英作文が出来ないで困ったが、英作文には英文の暗記が何よりと聞いて、一年の時のリーダー「ニューメソッドイングリッシュリーダー」を、第一章の「うなぎの旅」から始めて、一冊をほとんど丸暗記するようなことをやった。

当時私達一家は、元総社から母の実家がある総社町の山王に越していたが、天川原の前高から、山王まで、自転車で一時間ほどかかった。この学校帰りの夜の時間を私は英語の暗記に充てたのである。23頁の、要所要所を紙にメモして、そこをたどりながら声を出して覚えるのである。ペダルを踏みながら、手を伸ばしてヘッドライトの光でメモを見ては、大声で英語を叫ぶ姿も、人が見たら変に思ったに違いない。

後になって、なぜ夜間高校から東大を受ける気になったのかと人に聞かれることがあった。暗い谷底から何を目指して抜け出そうかと目標を捜す私の目に、たまたま学問の府としての東大の姿がきらきらと眩しく映ったのであるが、中学以来の、勉強したくもできない、思いっきり勉強したいという欲求不満の鬱積も、私を動かすエネルギーになっていたに違いない。

また、夜の学生は、昼間の前高を意識するところがあったが、それは私も同様だった。福島浩や芝基紘達は、名門前高のエリートとして良い教師、良い環境の下で学び、良い大学へ進むことが約束されている、それに比べて、同じ前高とはいえ、自分達は惨めだなあという思いであった。(明日の日曜日に続きます)

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2006年11月 3日 (金)

『上州の山河と共に」中村のりお著 連載(17)「東大受験を決意」

連載(17)「東大受験を決意」

この頃、岸内閣に対する反対とは別に、私の中で、東大というものに対する憧れが高まっていた。それまで、学問の最高峰ということで、雲の上の存在として遠くから眺めていた東大であったが、何とか入れないものであろうかと思うようになり、いつしか、よし、挑戦してやろうと思い込むようになっていた。

今から振り返れば、自分のおかれている情況からして全く無謀のことであったが、体力も気力も人生のピークに立つその頃の私には、不可能なことには思えなかったのである。木下藤吉郎が一介の足軽の分際で大望を抱き、勢力的に動き回った様を自分の姿と比べながら、私は意気軒昂であった。

東大への思いは日毎に募るが勉強方法も分らないし、指導者がいるわけでもなかった。煥乎堂で手に入れた確か、石田道夫という人の「東大への道」という本を心をときめかして読んだ。

東大の受験科目は、英語、数学、国語の他、理科二科目、社会二科目の計七科目であった。私は、受験を決意して以来、トイレの中にも、英語や社会の暗記物を置いて頑張った。一つの単語を覚えること、一つの歴史の事柄を頭に入れること、これらの一つ一つが東大への距離を一歩ずつ縮めるのだと思うと勇気が湧き疲れも消えるのであった。

この頃の私の悩みは父との確執であった。父は、私が仕事と共に勉強に打ち込む姿をにがにがしく見ていた。大学に合格する筈はない、仮りに合格したとして学費はどうするのだ、それから、肝心なことは、お前が大学へ行ったらダンゴ屋の商売はどうなるのだというのが父の反対の理由であった。

今から考えると、分別のない少年の思い込みは恐いものだと思う。同じような一途な思い込みが悪もなすし善もなす、そして世人を驚かすようなだいそれた事も仕出かす。

私の性質はどちらかといえば楽観論者である。先のことはきっとどうにかなると思ってやってしまう。東大受験についても、合格すれば、父が心配するようなことは、きっと解決の道が開けると信じていた。

私は、ダンゴを串に刺しながらも、英語の単語を暗記し、配達の時も、自転車の上で、片手に単語帳を握って暗記しながらペダルを踏んだ。今程、自動車交通が激しくない時期であったが、一度、道路に止まっていたトラックに追突したことがあった。

自転車の上で本を読むということは、なかなかの技術を要することである。前後左右に注意を払いながら、揺れ動く小さな字を読み取るのである。こんなことを続ける中、私は、どんな凸凹道であっても、左手に乗せた紙の上の活字を正確に読み取れることが出来るようになった。

私は、人の目を気にしないでいたが、道行く人の目には奇異なことに映ったに違いない。後年、耳にしたことであるが、大渡橋を渡り、大屋敷から山王に至る私の通り道では、自転車に乗っていつも本を読んでいる変わった子どもということで話題になっていたらしい。

当時、東大を出て、早稲田の生産技術研究所に通いながら、夜、前高の定時制で教鞭を取る妙見先生という方がいた。私が東大を受けることに理解を示された方で、<お前、俺の授業の時は、隣の空いた部屋で勉強してよい>、とか、<後の授業がないときは、速く帰って、自分の数学をやれ>、とか言ってくれた。学校の授業内容では、とても受験に対応出来ないと、私は知っていたので、先生の嬉しい指示に従うことにした。

私は、別にいい気になっていたわけではないが、眠い目を擦りながらじっと耐えている仲間の中には、鞄を抱えて出て行く私に反感をいだく者もいたに違いない。

(明日の土曜日に続きます)

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2006年11月 2日 (木)

インターネットで殺人依頼、復讐代行サイト

 昨日は決算特別委員会があり、審査の対象は教育、警察関係だった。午前中の教育関係では、私は、「必修漏れ」問題について持論の教育論を展開して質問した。

 質問に関連して一つ要望したことがある。それは、「必修漏れ」の本質を理解しない人が多い、教委は校長等を集めて説明し生徒や父母に理解が広がるように努めるべきだ、ということである。昨日も書いたように、必修科目とする目的は、複雑で高度な社会を生き抜くための力を育むことである。だから大学受験の科目にないからという理由で教えないというのは、高校が教育を放棄するに等しいのである。実は、大学受験のためにも、直接試験科目になっていない広い教養が役立つことは、受験の経験者なら分ることなのだ。このことにも触れて発言した。

◇午後の警察関係では、インターネットを利用した犯罪、及びインターネットの有害情報から少年を守る問題を取り上げた。新しい型の犯罪としてインターネットを利用した犯罪は、今後益々深刻になるだろう。又、インターネット上の有害な情報から子ども達が受ける悪影響も同様である。

◇「出会い系サイト」、「自殺サイト」、「復讐サイト」など、サイトという言葉がしきりに使われる。「サイト」とは場所のことで、インターネット上で情報を提供する「場所」、「掲示板」を表わす用語として使われている。私が質問したインターネット利用の犯罪には実にいろいろなものがある。サイト利用もその例だ。

報道された興味ある事件を取り上げる。私の知人のある女性がテレビで知って、「この人馬鹿ねえ」と笑ったA子(32)は、職場の上司Bと不倫関係にあった。BはA子に暴力を振るうようになる。A子はBに裏切られたと感じ愛情は復習心に変わる。A子は、インターネット上の、有償で他人に恨みを晴らすと宣伝する「復讐代行サイト」を見つけ、Bの殺害を依頼した。サイトの管理者・Cは着手金165万円を受け探偵業と称するCを紹介する。BとCは計画費、必要経費等として数回にわたり計1500万円をだまし取った。A子はサラ金から借りてこの金を払ったが、殺害が実行されないので、「だまされているのではないか」と警察に相談した。「馬鹿ねえ」、というのはこの点を指している。

A子は、起訴猶予、Bは傷害罪で逮捕され50万円の罰金刑、BとCは詐欺罪で有罪判決を受けた。

また平成17年に次のような事件もあった。無職の男(49)は長男(25)と共謀し、電子掲示板サイトに「半殺し50万円。殺したら100万円。年内に達成なら倍額」と実父の殺害を依頼。(サイト)を見て引き受けた男は実父を本当に殺した。長野県の事件である。

このようなおかしな事件が次々と起きている。インターネットを介して何でもありの社会になりつつあるのか。虚と実が入り混じって社会が崩れていくのを食い止めねばならない。

(健全なインターネット社会の実現を願って。読者に感謝)

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2006年11月 1日 (水)

校長の自殺、心情的には同情するが

 必修漏れ問題で校長が自殺した。どこに責任があるか問われている矢先である。校長は自殺を選ぶべきではなかった。残念である。責任論の点からは、少なくとも責任の一端は負うべきだから耐えて事後の対応に全力を尽くすべきだった。また、自殺は敗北であり、教育者として生徒に悪い見本を示したことになる。

 責任論の所在はといえば、先ず、校長と教育委員会にあるというべきだ。指導要領に改めるべき点があるとすれば国(文科省)にも責任がある。

 受験科目とずれがあることを指摘する意見があるが、それは、おかしいのではないか。予備校ならいざ知らず、高校教育の目的は、受験ではない。高度で複雑な文明社会を生きる力を育む事が目的である。そのために最少限必要な科目が必修科目であるべきだ。果たしてそうなっているか。時代の変化は激しい。それに対応するために適切な科目が必修となっているか、この点に文科省の役割と責任を論ずる余地がある。

ところで、非常に多くの高校で必修漏れが見つかったことから、一部ではあたかも、現在の必修制度に問題があるかのように論じられている。しかし、全体をみれば、ほとんどの高校は、「必修」を守っているのである。やはり、受験の便宜の為に必修のルールを破っているという事実を直視すべきである。

 必修の意義を正しく捉えるなら、受験を優先させて必修科目を教えなかった校長は、教育の真の目的を追及しなかった点で責任は大きい。そして、それをチェック出来なかった教委の責任も大きい。

 重要なことは、卒業や受験をひかえて不安な生徒をどう救うかということ、及び、この出来事を今後にどう生かすかということである。必修科目は教育の目的と結びついた問題なので、これは、教育改革の一環でもある。本県としても十分に議論したい。

◆岐阜県の中2の女子生徒が遺書を書いて自殺した事件は先日触れたが、なぜ死に急ぐかという思いがする。名前を挙げられた部活仲間も深刻な思いに違いない。この生徒たちの親がそろって亡くなった女子生徒宅を訪ね、いじめを認めて謝罪したこと、それに関して女子生徒の父親が、「誠意が伝わってきた、今後の子供の育て方に生かして欲しい」と発言していること、これらは、やり切れない中にもほっとさせる出来事である。

 部活の中で悩んだり苦しんだりしている子供たちは、非常に多いはずである。運動の部活では励ましたり競い合ったり、先輩が後輩を鍛えたりする中で、ついやり過ぎたりすることは常にある。いじめに気づかぬこともあるだろう。学校は、厳しいトレーニングの中にも、温かい思いやりが常に必要であることを、この事件を機に生徒に教えるべきだ。顧問の役割は大きい。岐阜端浪中の事件の場合、顧問に油断があったかもしれない。この種の事件の連鎖反応を学校の現場は防がねばならない。

(教育環境の健全化を願って。読者に感謝)

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