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2006年10月 1日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(7)「小学生時代」

第7回「小学生時代」

下の部落へ引越しても、まだ、学校迄は片道7キロもあった。また、近所が近くなったという他は、生活もそんなに変わらなかった。電気はなく、ランプの生活で、ランプのほや拭きは、手がちょうど穴に入るというので私の仕事だった。このランプの灯の下で、母がよく本を読んでくれた。これが唯一の楽しみで、お陰で私は本が好きな子どもになっていった。

学校までの道程(みちのり)は、子どもにとってかなり厳しいものであったがもっと遠くから通っている者もいた。夜が明けるとすぐに、私の家を見おろす土手に立って、「おうい、中村ぁ、おうい、中村ぁ」と毎朝大声で迎えに来る男がいた。芝基紘(しば もとひろ)といって、私の家より更に何キロか離れた赤芝という所に住んでいた。仲間うちでは、奴は暗いうちに家を出てくると噂していた。彼は、現在、タカベン(高崎弁当)の重役として活躍している。夜、遅く電話すると、まだ帰っていない、朝、7時前に電話すると、もう出たという。彼の並はずれた行動力の元は、宮城の少年時代につくられたものであろう。この他、前期の福島浩、上野和仁などと仲良くなった。

 私が小学校へ入学した昭和22年は、カスリン台風が関東を襲い、各地に大きな被害を与えた。学校へ行く道中には、新井橋、神沢橋という、二つの橋があったが、台風の朝登校時既に濁流が恐いほどの勢いで橋桁を洗っていた。学校は午前中で終わりになって、私は、この橋の上を走り抜けるようにして帰ったが、その夜、この二つの橋は、流されてしまった。村では、流されて行方不明になった者も出て大騒ぎであった。台風が去ると、多くの田や畑は、大きな石ころがころがる河原のようになり、また、いたる所山から流されてきた流木や壊れた家の残がいが山となっていた。

 この頃、戦争や台風で痛めつけられた人々の心を癒すようにりんごの唄が、いたる所で歌われていた。

     赤いりんごに唇よせて

     だまって見ている青い空

     りんごはなんにもいわないけれど

     りんごの気持ちはよくわかる

     りんご可愛いや可愛やりんご

私は県会議員となって、敬老会で唄をうたう場面がよくあるが、そんなとき、戦後の苦しかった時代のことを話し、この唄をうたうと大変に受け、涙ぐむお年寄りもいる。私とは親子ほどのへだたりのある人々と、この唄を通じて共通の思い出にひたることが出来るのが何より嬉しい。

小学校の低学年から本が好きになれたことは幸いであったと思う。当時は何の娯楽もない時代で、特に私の家はラジオもない状態なので、本を読むことだけが楽しみであった。(次回は10月7日(土)に掲載予定です)

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