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2006年10月31日 (火)

退場の鈴は、心地よく響く

 妻は、持病の頭痛もちである。東京の大学病院へ通ったりして努力しているが、なかなか治らない。ストレスも一因らしい。時々、重い雲が晴れるように頭の中がすっきりすることがある。そんなとき、事務所の仕事に打ち込むと翌日当たりに頭の底の方から何かがはい上がって脳みそをかきむしるように痛む。数日前は、あまり痛がるので私は妻をつれて日赤の救急に駆けつける始末であった。

 そこで一計を案じ、妻が調子が良いといって事務所に出たときは、一定の時間が経過したとき鈴を鳴らすことにしたのである。これはいわくのある品物で、恩師の林健太郎先生の机上においてあったものである。先生が亡くなられた後、善福寺のお宅を訪ね、蔵書と共に頂いたものである。先生が二階で奥様を呼ぶのに使ったのかも知れない。鈴の由来を知っている妻は、鈴の音を謙虚に受け止めているようで鈴が鳴ると照れたように笑いながら事務所を出ていく。南部鉄の中から生まれるきれいな音が静かに響く。この音のように妻の頭の中がさわやかになることを私は祈るのである。

◆中国帰国者との懇親会。帰国者協会の人々との付き合いは長い。旧満州と関わる彼らは、日本の中国侵略の暗い陰を引きずる存在であり、歴史の証人でもある。田中内閣の時に実現した日中国交回復を機に残留孤児を中心として、どっと日本の社会に移り住むようになった。この日感じたことは、十数年前と比べて、帰国者の表情が明るく元気がいいことだ。これは、彼らが日本に定着してしっかり頑張っていることを示すもの。帰国者協会の事務局に、元県職員の中国通で中国好きの小池さんが入ってた事が、帰国者を安心させる大きな要素になっている。

 指導員とかいって、帰国者を世話する人の中には、「引揚げ者」を低く見るような人もあったようだ。それは、人権感覚の薄さと、歴史認識の乏しさを示すもので、帰国者たちは、そのような人に強く反発したことがあった。強く逞しく真面目に生きる彼らの姿は、かつての日本人を思わせる。会長の清水さんは、中国時代は中学の数学の先生だった。中国時代、警察官だった人、企業の経営者だった人など多彩な顔ぶれであるが、皆、過去の経歴を切り離して新しい世界を生きている。日本は、彼らにとって新しい開拓地なのだろう。酒を酌み交わしながら友情の深まりを感じた。

◆「議長日記」が上毛新聞社から出版された。第一巻は、「激動の時代」である。第二巻の「議会改革の波」は、一週間後に世に出る。各巻、約150ページで、5巻位まで続く予定だ。本を手にして、よく書いたものだという感慨を持った。時系列に毎日を並べるのでなく、大まかな分野別に章立てをした。第一巻の目次は、第1章「南米訪問」、第2章「警察・治安・犯罪」、第3章「教育関係」である。県政に親しんでもらう一助になればと願う。

(教育界が正常化に向かうことを願って。読者に感謝)

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2006年10月30日 (月)

必修漏れ、全国に広がる。事の本質は

 41都道府県404の高校に必修漏れがあるという(28日現在)。本県でも五校に存在することが分った。この問題は、24日、富山県の県立高校で発覚し、その後、全国の高校で発覚が続いた。連日、この問題が大きく報じられている。「この騒ぎは何か」と私に問う人がいた。事は重大なのだ。 高校で学ばなければならないことを定めた学習指導要領の無視である。必修漏れのままでは卒業できず、大学にも進めない。1科目を履修するには70回以上の授業を受けねばならない。入試を間近にした受験生にとって衝撃は大きい。高校は、「漏れ」を隠すために、教委に虚偽の報告をしていた。不正をした高校側の責任、事態を把握できた筈の教委の責任、これは共に重い。 何故このようなことが起きたか。授業時間数の不足と受験対策のためである。学校五日制が導入され公立高は授業時間が減った。また、進学実績を上げたいために受験に有利な科目を選び、受験に必要ないと考える科目は必修であっても授業しなかったということだ。 「教科書があるのに授業がないので変だと思ったことがある」、「テストを受けていないのに成績表には点数が書かれていて変だと思った」、このような高校生の声が伝えられている。必修漏れを指摘された高校は、補習授業をやるというが、これから受験勉強に全力を注がねばならない生徒にとっては大変なことだ。学校に対する怒り、不信、戸惑いが起きるのは当然である。安倍首相は、子どもたちの将来に問題が発生しないようにと文科省に検討を指示したとされる。文科省は、救済策を検討するようだ。 非常に多くの生徒が被害者なので責任追及よりも救済に重点が置かれているという面も否定できないだろう。しかし、「漏れ」にされた科目は何故必修とされているかを私たちは、考えねばならない。高校生として身につけるべき教養として必要だからである。例えば、世界史の必修漏れが多いらしいが、世界史の理解は国際化の進む社会で生きる若者にとって非常に重要だからである。必修科目を教えなかった高校は、受験という目先のことにとらわれて大きな間違いを犯したというべきだ。このようなことは、かなり前から行われていたらしい。把握できた筈の教委は問題を深刻に受け止めて欲しい。 ◇生徒の自殺が続いている。 福岡県筑前町の中2男子のいじめによる自殺が大問題になっている矢先、岐阜県の中2の女子生徒が遺書を残して自殺した。両親はいじめだといっているが判断が難しい点もあるようだ。女子生徒は、バスケットで他の部員より技量が遅れていて迷惑をかけた、お荷物になったと言っている。パスをわざと遠くに出されたとも。 一つの事件は連鎖するかのようだ。死にたいと悩む生徒の頭で、福岡県の中2男子のことがひらめいて働きかけるのだろうか。そして、今度は、長崎県の高1女子生徒が首をつり重体だということが報じられた。社会の病弊が伝播することを全力で阻止しなければならない。子どもたちが萎縮することも心配だ。                    (教育環境の正常化を願って。読者に感謝)                                                          ★土・日・祝日は、以前からのご要望により、「上州の山河と共に」を連載しております。  11月10日、グリーンドームで、面白い集いがあります。読者の参加を期待しております。

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2006年10月29日 (日)

『上州の山河と共に」中村のりお著 連載(16)「だんご屋になる」「東大受験を決意」

連載(16)「だんご屋になる」「東大受験を決意」

一つ一つ糸で切っていては埒(らち)があかない。そこで私は一つの道具を考案した。20センチ程の高さの板の囲いをつくり、その上に等間隔に細い針金を張って、その上に前記の粳粉(しんこ)の細長い棒を乗せ、これを上から手で押すと、一度に230個のダンゴの玉が切られて下に落ちる仕組みである。

串に刺す方も手仕事であった。これは、近所の子ども達やおばさん達を1時間、いくらときめて、朝の12時間、作業してもらった。

今は弟の賢三が家業を継いで頑張っているが、そこではこのような作業は、全て機械がやり、粳粉(しんこ)を入れれば、ダンゴは串に刺さって、人の手の何人分もの速さで、次から次へと、飛び出してくる。私は、時々弟の工場で、機械から送り出されるダンゴを見ながら、昔の手作りの光景を思い出すのである。

私の家は、ダンゴのお陰でやっと御飯が食べられるようになった。ダンゴ屋が繁盛することは、一家にとって大変嬉しいことであったが、私の心は複雑であった。今まで煎餅が売れないときは、こんな商売をいつ迄していても仕方がない、勉強をして、いつかこの境遇から抜け出さなければと思って、私は寸暇を見つけて勉強に心懸けていた。大学に進めるかどうかは漠然としていたが、チャンスがあれば、大学へ行きたい、その時のために少しでも実力をつけておこう、という考えであった。

ところが、ダンゴの売れ行きが良くなると、父や母も、当然のことながら、商売として、これを大きく伸ばしたいと考え、私がその方向で一層努力することを期待するわけである。

私はジレンマに陥った。このまま商売に徹して商人として大成する道を取るべきか、それとも、もっともっと勉強し、夢を求めて未知の世界に飛び込むべきか。

勉強を捨てて自分の全知全能を商売に注いだなら大金を手にすることは、それほど難しくない現実的な目標と思えた。しかし、私の中で脈々と流れているものは、目先の現実よりも、未来の夢に私を駆り立てるのであった。

宮城村の山野で耐えられた体力や気力、福島浩や、上野和仁等と歴史上の人物につき語り合うなかで憧れ、育てた理想像、これらは極貧の生活の中にあっても、心までも泥沼につかることのないように私を支える力であった。

「東大受験を決意」

この頃、世相は騒然として、社会の底辺に生きる私達にとっても刺激的な政治的社会的出来事が次々に起きていた。昭和34年は岸内閣の時代であり、安保の時代の始まりであった。

安保反対闘争の中心として連日新聞テレビを沸かす全学連の動きは私の目には社会正義に燃える若者の叫びと映った。その中心は東大の学生達であった。

35年には、この安保闘争の中で東大生樺美智子が死亡し、数千の学生による抗議集会が国会構内で行われる。安保条約の中身がよく分からないまま、私は平田宏と、岸内閣はけしからん、ということを盛んに議論し血をたぎらせた。

(次回は11月3日(金)祝日に掲載予定です)

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2006年10月28日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(15)「だんご屋になる」

連載(15)ダンゴ屋になる」 

定時制の3年生の頃、私の商売の上で変化が起きた。煎餅の製造販売は率の悪い仕事であり、その上売れ行きも悪く、煎餅で利益を上げることは大変なことであった。前橋のお得意だけでは捌(さば)き切れず、高崎にも新しいお得意を開拓し、そちらにも自転車で卸しに行くようになった。

前橋・高崎間の道路は、当時、まだほとんど舗装されておらず、がたがたと振動が激しいものだから、売れ残って持ち帰った煎餅は、擦れて縁(ふち)に傷がついてしまう。その部分に刷毛(はけ)で醤油を塗ってまた売りに出すというような始末であった。

そんなわけで、何とかしなければと、私はかねがね考えていたが、あるとき、煎餅のもとである餅をついていてふと思いついたことがあった。

それは、この餅をこのまま丸めて串に刺したらダンゴとして売れるのではないかということであった。煎餅にするには、前にもちょっと触れたが、白米を粉にして、それを蒸して、餅にしたものを伸ばして、形に切って、乾燥し、これを焙炉(ほいろ)というものにかけて温めたものを焼いて醤油をつけるという、面倒で長い工程を必要とする。

これに比べたらダンゴを作ることの方がはるかに簡単である。父も賛成であった。早速、試作にとりかかった。ダンゴそのものを作るのは、串に刺しさえ擦ればよいのだから簡単であった。問題は、ダンゴにつける垂(たれ)の作り方であった。熱湯にザラメという茶色い大粒の砂糖を溶かしこみ、これに片栗粉を水に解いたものを流しこむ。これが大雑把な工程であるが、片栗粉の分量や、これを熱湯に流し込むタイミングなどによって熱湯と片栗との一体化がうまくゆかない。とろっとした良いものが出来たと思って、ダンゴに付けて見るとダンゴに付着しないで流れ落ちてしまったりする。市内のダンゴ屋から実物を買って来てその垂を分析し、まるで理科の実験のような作業を何度も繰り返した。

串に四つの丸い玉を刺した小さなダンゴ。小売価格は、15円、おろし値は350銭であった。試作品は煎餅のお得意先で売ってもらうことにした。はじめの反応は以外に良好であった。10時や3時のお茶のとき、また、子どものおやつに、便利で手頃な食べ物であった。恐る恐る始めたダンゴ屋であったが、何とかゆけるのではという見通しの下に、煎餅からダンゴへと全面的に切替えることになった。

はじめの内は、竹を買って串を作ることまで自分の家でやった。ダンゴの作り方といえば、白米を粉にして蒸して搗(つ)いたものを、粳粉(しんこ)餅、簡単に粳粉というが、この粳粉を細長い棒状の形に伸ばし、これを糸で括(くび)って切り離したものを串に刺すのである。(明日の日曜日に続く)

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2006年10月27日 (金)

教育委員会は必要か

 安倍政権の最重要課題として「教育」があげられている。人づくりが最も重要であることは論を待たないことであるが、その人づくりを支える教育の危機が叫ばれる現状を見れば、安倍政権の意気込みはうなづけることである。

 教育の世界の重要課題は多いが、従来は学力の低下が問題となり、最近は、これに加えてにわかにいじめ問題がクローズアップされてきた。そして、このように、難問に囲まれる中で、地方の教育界における教育委員会の存在意義が問われるに至っている。

 教育委員会の形骸化は前から叫ばれていることであるが、政府の「教育再生会議」で改めてこの制度の見直しが議論されている。そのきっかけは、いじめ問題に教委が適切に対応していないのではないかという指摘である。

 本県の教育委員会は知事に任命される六名の委員で構成される。そして、この委員会の下に教委事務局がある。一般の県民は、教育委員の実態を知らない人が多い。多くは、教育委員会事務局のことを教育委員会と受け止めているのである。六名の教育委員が実質的な責任を担わない単なる名誉職であってはならない。世の中に流れる「形骸化」の批判は名誉職的になっていることを憂えている。教育の専門家である必要はないが、教育についての強い信念と高い見識を備えた人でなければならない。

 教育委員会を活性化させるものは、県民の目である。教育委員会の会議を県民が傍聴する事は、その意味で重要である。県議会では、教育委員長が本会議に常時出席するようになった。常任委員会への出席は要請があった場合にということになっているが、この方も、大体出ているようである。このような、県民の目に耐えられる人が教育委員になることが教育委員会を活性化させる第一歩なのだ。

 「いじめ」を初めとする深刻な問題に対応できない教委の姿にやきもきしてか、政府内には、教育委員会の廃止論も出ている。この廃止論に伴う危険性は、「教委で解決できないなら政府が介入せざるを得ない」という考え方に現われている。教委の役割は、教育における地方分権の実現である。地方の教育は、地方の自主性に基づいて行われなければならない。だから、地方の自主性を担うための教委が駄目だから、政府の介入をというのは、本末転倒なのだ。

 教委がその原点に立って役割を果たすために重要なことは、教育の現場を良く知って、現場の自主性を尊重することである。そして、現場の活力を引き出すことの出来る教委であって欲しい。私が言う県民の目とは、そのような教委を育てる視線のことである。

 ◇連日のように少年の難しい事件が起きている。奈良県の医師の16歳の長男が起こした放火殺人事件で、検察は成人と同じで刑事裁判を受けさせるべきだと主張したが、地裁は26日保護処分を決定した。少年の事件の行方を見守って行きたいと思う。

(教育委員会の活性化を願って。読者に感謝)

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2006年10月26日 (木)

先生のいじめ、同様な事件が続くものだ

 福岡県の中2男子いじめ自殺事件の衝撃が広がっている。文科相は、小渕優子さんを、この事件の調査に派遣するという。この事件の核心は、もやもやしていて、いまいち、よく分らない部分がある。しかし、教師の言動が重大な結果を引き起こすことを示したこの事件の根は深い。「ヒヤリ・ハット」を思い当たる教師は意外に多いのではないか。

 問題の教諭は、「からかいやすかった」と言っているが、問題の発言が生徒たちに受けていると錯覚して、ずるずると慣れの深みにはまっていった可能性がある。そうさせたものは、事の本質に気づかない教諭の資質にある。

 成績優秀な生徒を「あまおう」、悪い生徒を「ジャムにもならず出荷できない」などとイチゴの質でランク付けしたことが伝わっているが、教室は笑いでつつまれたこともあったのだろう。しかし出荷できない劣荷と評された生徒の心をぐさりと傷つけ、またそれが、いじめの発端になることに気づかなかったとすれば、まさに不適格な教師といわねばならない。

 教師の使命は、生徒の良いところを見つけて伸ばすことである。昔、内申書に悪い評価を書いたことが訴訟で争われたことがあった。たとえ事実が含まれていても、書くことによって将来の伸びる芽を摘んでしまうことになる。問題の教諭は、自殺した生徒のことを「うそつき」と、引継ぎの担任に報告したとされるが、事実とすれば、「あまおう」や「ジャム」の話よりも深刻である。

 ◇中学教諭のいじめが鹿児島県でも起きていた。中二の女子生徒が男子教諭からいじめを受けたとして不登校になっているらしい。学校の説明では、教諭は、女子生徒にプリントやはちまきを渡さなかったり、日直を飛ばしたり、出欠をとる際、名前でなく「次の人」と呼んだりした。女子生徒は、「人生をだいなしにされた。死んでやる」と学校に手紙を出した。生徒の保護者の要望を受け入れたこの教諭は、今年3月終業式で1年生全員の前で保護者に謝罪したという。

 ◇県教委もいじめ問題で動き始めた。市町村教委の生徒指導担任者などを集めた緊急の会議を開き公立小中全校を対象にしたいじめの点検を要請したのだ。市町村教委の生徒指導担当者などを集めた緊急の会議を開き公立小中全校を対象にしたいじめの点検を要請した。

 文科省が定義する「いじめの定義」は、①自分より弱いものに対して一方的に ②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、 ③相手が深刻な苦痛を感じているもの、である。県教委の調査は、これを踏まえて、いじめの兆候や可能性も含め、その件数や解消、継続の状態にも及ぶ。9月末までに県教委に報告された本年度のいじめの発生は小中学校で7件であるが、この数字は実態を反映したものとは思えない。「いじめ」に的確に対応するには、まず現実を正しく把握することである。全国的に教育委員会の在り方が問われる中で県教委がこの問題に如何に取り組むか、見守りたい。

(本県のいじめ問題の解決を願って。読者に感謝)

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2006年10月25日 (水)

前福島県知事の逮捕は多選の弊の表われだ

 実弟が逮捕されたことで既に辞職していた佐藤栄佐久前知事が逮捕された。公共工事にからむ収賄容疑である。5期18年にわたり県政に君臨した男の逮捕から私たちは何を学ぶことが出来るのか。それは、単的にいえば、知事の絶大な権力とそれ故の多選の弊害である。

 強大な権限を持つ知事がからむ腐敗の事件は多い。記憶に新しいのは03年に起きた埼玉県の土屋知事の辞職である。これは、土屋氏の長女が業者から不明朗な資金提供を受けたことが発覚した事件に関するものである。長女は、県人事に介入し、予算の策定にも影響力を及ぼしたとされる。

 これらの他にも、76年から03年までの間に知事が辞職した主なケースは11件ある。そして、この中には逮捕・立件された例も多く含まれている。

 知事が強大な権力を持つのは、選挙によって選ばれるからである。それは、大統領型の権限といわれるが、議院内閣制に基づく内閣総理大臣の選ばれ方を比較すると分り易い。つまり、内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決によって選ばれ、国会に対して責任を負うのである。知事は、県会議員の中から選ばれるのではないし、県会に対して責任を負うわけでもない。このように、選挙によって有権者から選出される仕組みが「大統領型」と呼ばれている制度である。

 知事の権限は余りに大きい。それが何期も続けばますます強大になる。その上に誰よりも政策を知り尽くすことになるから、知事に物が言えない雰囲気が作り出されるのは自然のことである。聖人君子でない限り、人間、強大な権力の座に長くいれば油断も生まれ、権力の濫用に至る危険も生ずる。仮に本人がそうでないにしても回りがそのような状況を作ってしまい、新鮮な空気は流れなくなる。

 宮城県で3期知事を務めた浅野史朗氏は、4戦不出馬を表明した時、「(多選によって)権力は陳腐化する」と言った。「12年同じ事を繰り返し新鮮味が薄れていった」というのだ。これも多選の弊害の一つに違いない。

 知事の多選とは何期を指すのかはっきりしない。その強大な権限を踏まえて考えるなら4期以上というべきだろう。小寺知事は5期を目指すことを表明した。正に多選である。小寺知事は、多選の是非は有権者に判断させると言っている。多選であることは自ら認めているのだ。多選には、様々な弊害が伴う以上出馬するべきではないと思う。「県庁では、知事に何も言うことができない」と、ある県の幹部が私にもらした。ここには、一つの真実が秘められているといえる。

 知事の権限が強大だから、これを監視する立場の県議会の責任は重大である。福島県の今回の事件でも議会は役割を果たせなかったことが批判されている。多選の弊を阻止することは議会の責任でもある。皆さんと共に引き続き考えて行きたい。

(新鮮な県政の実現を願って。読者に感謝)

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2006年10月24日 (火)

安倍首相が教育改革を第一に挙げる理由

 教育をめぐる問題は誠に深刻である。最近は教師の軽率な行為が生徒の自殺の原因となる事件が起きた。教師の見識が問われる事件でもある。時、あたかも不適格教師を排除するべしという声が政府の一角でも高まっている。福岡県の中二男子を自殺に追い込んだ教師の事件は、この世論の火に油を注ぐ結果になるかも知れない。

 死んだ生徒の母親は、息子がインターネットでアダルトサイトを見ていることを担任に相談したら、この担任は、他の生徒の前でこのことを話したという。そして、これがきっかけで、名前をもじった心無いアダ名がつけられ、生徒は学校に行きたくないというようになりやがて死を選ぶ。

 担任の教師は、自分の言動がどのような意味を持つか分らなかったのだと思う。それがいじめの原因となり、対象となった生徒の心をいかに傷つけるかに気付かなかったのだ。このようなデリカシーのなさに教師としての不適格性が表われている。

 学校の対応もかなり混乱しているようだ。例えば、いじめの実態を調べる手段として教師と生徒を対象にアンケートを行っているがその方法も批判されている。第一回は、死んだ生徒の両親が記名だと本当のことを書かないから無記名でと再三要求したのに記名式で行った。二回目は無記名で行ったが、「これから学校に期待すること」というような聞き方なので、真相を見つけることが出来ず、近く三回目のアンケートを実施するそうだ。このような事件に巻き込まれた場合の学校、PTAなどの見識が問われている。日本全体の教育がかかわる問題なのだから、もし私たちだったらどうするかという意識で注目すべきだ。

 今度は先生の自殺が起きた。報じられるところによれば、校長によるいじめがあったようだ。「パワハラ」という耳慣れない言葉が現われた。パワーハラスメントの略である。ハラスメントとは、困らせる、悩ませる、苦しめるなどという意味。セクシャル(性的)ハラスメント、略して、セクハラが問題になってきたが、今度は校長の力(パワー)によるものだから、パワハラなのだ。この教諭は、職場で、校長から繰り返し怒号を浴びせられたという。遺族から葬式への参列を拒否された校長は、現在体調不良を理由に休養中らしい。

 教師が抱えるストレスは大きいようだ。9月議会でも問題になったが、うつ病などの精神疾患が原因で休職する人が非常に多いのだ。教師の病休の3分の2に当たる。最近は特に増えているという。精神疾患の多さは、現代社会の特色だが、教師の場合、ストレスの多さも一因ではないか。

 教師は、純粋培養型の人が多く一般にストレスに弱いといえるかも知れないが、地域社会で教師を温かく支えることが必要だと思う。自己中心の親が増え、すぐに教師を攻撃する傾向がある。教育委員会は見識を示して、社会の悪い雰囲気の中で、弱い教師を守ってやるべきで、世論に何でも迎合してはならない。

(学校の正常化を願って。読者に感謝)

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2006年10月23日 (月)

死刑判決の急増をどう考えるか

 このところ、死刑判決が、実に多い。凶悪事件に死刑判決が下されたことがある所で話題になって、二、三の人は当然だと声を荒げて言った。死刑については、昔から賛否両論あるが最近の世論では賛成論が多くなっているらしい。

それにしても、次々と驚くような事件が起きてそれに死刑の判決が下るが、私たちの記憶からすぐに薄れていくのも事実だ。凶悪事件は、私たちの社会が病んでいることの表れでもあるのだから、他人事と考えずにしっかりと見つめる必要がある。被害者のことを考えると、その立場に私たちが立たされる可能性があるという視点も重要だ。

 そこで、いくつかの最近の死刑判決を取り上げたい。まず、静岡県三島市の女子短大生殺害事件。暴行した上、生きたまま焼き殺した事件である。その残忍さが、焼く臭いと共に伝わってくるようである。東京高裁は、一審判決の無期懲役をくつがえして死刑判決を下した。

次に最近の判決では奈良県の女児殺害事件がある。新聞販売店の従業員が小1の女児をわいせつ目的で誘拐し、強制わいせつ行為をし、自室の浴槽に頭を押さえつけて沈めて殺した。奈良地裁は先月死刑判決を下した。被害者のあどけない笑顔、伝えられる被告の生(お)い立ち、これらを見ると何ともやり切れない思いだ。

これらの二つの判決は、被害者が一人であるにもかかわらず死刑を言い渡した点に特色がある。従来、死刑を言い渡す基準は複数の命を奪った場合ということであった。

そして、オウムの麻原教祖に対する死刑判決があり、今月に入ってからは、母と子が死刑を言い渡された特異な事件がある。これは、福岡県大牟田市で起きた、「一家4人」が共謀して「母子ら4人」を殺害したとされる事件である。被告4人のうち母と次男に、福岡地裁は死刑を言い渡した。父親と長男については別の公判で審理中である。

親と子が死刑判決を言い渡されるのは極めて珍しい。父親が暴力団幹部というこの人たちは、一体どんな家族なのか。想像をはるかに超えるものがある。通常、どんな非道を犯す人も両親、特に母は別である。死刑を言い渡された母と次男は、非常に似た顔つきである。この母はこの子をどう育てたのか。金のために一家全員が共謀して次々と人を殺す、このような家族の存在は、一般社会の状況と全く無関係なのか、それとも、人命軽視、金銭万能という点でどこかでつながっているのか。これから明らかにされるであろう前代未聞の事件の全容を見守っていきたい。

最近、確定した死刑判決が90を超えるという。前法務大臣は、執行にサインしなかった。裁判員制度の実現も近づいている。死刑を考えることは、人間を考えることであり、社会を考えることでもある。

(凶悪事件が減ることを願って。読者に感謝)

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2006年10月22日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(14)「前橋高校定時制」

連載14回「前橋高校定時制」

2年生になる頃、平田宏という男と親しくなった。彼は、昼は三共電機(今のサンデン)で働きながら、伊勢崎から夜学に通っていた。

彼は、勉強家であるとともに理論家であった。私の知らない世界のことを実によく知っている。それは、主に、社会主義や資本主義、そして哲学のことであった。彼は柳田謙十郎の本を何冊か私に紹介したりした。

学校の帰り、彼が前橋駅で伊勢崎行きの電車を待つ間、社会のこと、政治のこと、あるいは、人生のことなど、星空の下で熱心に議論することがよくあった。

人生とは何か、何を目的として生きるべきなのか、社会の矛盾をどう考えるか、政治とは何か、彼は、何も知らない私に、このようなことについて熱っぽく話した。難しい言葉を駆使して理路整然と話す彼が、私には大変羨ましく思えた。

私は、彼に接するようになってから、政治の問題、社会の問題に強い関心を持つようになった。平田宏によって開かれた目で見ると、自分のまわりは、様々な政治問題、社会問題が渦巻いていた。

昭和33年頃、小松川高校事件というのが起きた。朝鮮人の工員・李という少年が二人の女性を殺した事件である。李という少年が定時制の生徒で、大変貧しい家庭で、しかも、朝鮮人部落という特殊な環境で育ったということ、そしてずば抜けた知能指数を持った少年であるということが、私にはショックであった。(なぜ人を殺す程不良になったのか、環境が悪かったせいではないか、普通の環境で育ったら、あんな人間にはならなかったのではないか、死刑にすべきか、いや、死刑は可愛そうだ・・・・・・)この問題については、平田宏と夢中になって議論をした。

後に、大学で、人格とは、環境の影響を強く受けながらも、主体的に形成してゆくもので、その主体的な面において人は責任を問われる、という理論を読んだとき、真っ先に頭に浮かんだのがこの事件であった。李少年は、結局死刑になった。そして、この事件は、大島渚監督によって映画にもなった。

私はこの少年のことは、新聞から知り得る程度であったが、死刑にするには気の毒だと思った。李事件を材料にして、死刑という制度の是非についても、彼と激論を交わした。 

今から思えば幼稚な議論であったが、<それは、見せしめの為に死刑は必要だ、いや反省している人間を殺してしまうのは、国が人殺しをやるのと同じだ>あるいは、<裁判に間違いがあった時、取り返しがつかないではないか>というような点が中心になったと思う。

この頃、相馬ヶ原演習場で、ジラード事件が起きた。薬きょう拾いをしていた農婦が、米兵、ジラードに<ヘイ・ママサン>とからかい半分に声をかけられ、射殺された事件である。

日本がアメリカと戦って敗れたという事は、分かりすぎる程分かっていた。赤城の山奥で開墾生活をすることになったのも、食べ物がなくて薩摩芋ばかり食べさせられたことも、敗戦の結果であると教えられていた。しかし、既に昭和26年、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は独立し、その喜びは、当時、小学生だった私たち子どもの胸にも伝わっていた。

従って、米兵ジラードによって日本の農婦が犬のように殺されたということは、余りにも日本を侮辱することと私には思えた。そして、前橋地方裁判所が執行猶予付きという非常に軽い判決を下したことは、裁判所までがアメリカに遠慮して公正を欠く判決を下しているように思えてならなかった。

昭和34年、私は定時制高校3年生になっていた。この年4月、皇太子成婚。妃となる正田美智子さんが群馬の出身ということもあって町中どこへ行ってもこの話題でもちきりであった。

私も、商売をしながら、お得意先のテレビで、華やかな行列と美智子さんの正装の姿を見た。戦後、天皇が人間宣言をされ、皇室が民間に近づいたとはいえ、まだ、私達から見ると雲の上の存在だった。馬車に乗った美智子さんの姿は品があり気高く見えた。そして、天皇家がぐっと近づいて、自分たちの天皇という感じが自然に湧くのを覚えた。

(次回は10月28日(土)に掲載予定です)

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2006年10月21日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(13)「元総社時代」、「前橋高校定時制」

連載13回「元総社時代」、「前橋高校定時制」

悶々と悩みながら、ペダルを踏んでいたある日、まちで、福島浩と出会った。彼は前橋高校の一年生で、その制服の金ボタン、帽子の記章が一際映えて眩しく見えた。自転車を止めて立ち話をする中で、彼が話したことは私にとって衝撃的であった。それは前高には夜間部がある、多くの生徒が昼間は働き、夜、熱心に勉強している、4年間頑張って大学へ進む者もいる、ということであった。

私は、話を聞いていて、これだ、と思った。暗闇の中で一条の光を見た思いであった。私はさっそく父に相談した。今まで以上に働くから、夜学に通わして欲しいという私の希望を父も認めてくれた。

「前橋高校定時制」

 翌年、私は試験を受け、前橋高校定時制課程に入学した。前高の校舎は、天川原町、現在、生涯学習センターとなっている所にあった。まわりは一面田んぼで、夕暮れ時になると、この田んぼを斜めに走る細い道を通って、続々と生徒が集まる。授業開始は、545分であった。

天下の名門校、校歌でも「男子の粋を集めたる」と唄う前橋高校も、夜間部の事情は複雑であった。私のように経済的事情で昼間の高校へ行けない者が多かったが、中には入試に失敗し、一年間、夜間部に席を置きながら、翌年の入試に備える者もいた。もともと夜間部を目指して入って来た人達は、私のように一年遅れて入る者、あるいは、2,3年遅れて入る者などもあって、クラスの年齢構成もまちまちであった。

私は、中学に入った時とは、全く違った気持で入学した。一年間、学校を離れていたことは、私の中の知的なものへの欲求をかえって高めていた。そして、たとえ夜間部であれ前高の生徒になれたということは、それが何であるかは分からぬが未来の大いなる理想に通ずる細い道に足をかけることが出来たと思えて嬉しかった。

私は煎餅のカンを自転車につけたまま、疲れも忘れて校門をくぐる。同じ様な境遇の者が集まっているから中学の時のように貧乏ということで卑屈になることもない。それどころか、教室は、昼間、それぞれの職場で疲れ、傷ついた心を癒すオアシスの意味も持っていた。私は、中学時代の自分の態度に対する反省もあって、誰とも、積極的に付き合うようにした。

1学年は2クラスあって、1クラス30数人だった。クラスのほとんどの者が職業を持っている。公務員もいれば、町工場で働くものもいるし、私のように家業に従事している者もいた。だから話題も豊富だった。そしてここで、いろいろな情報を交換し合えることは有意義で勉強になった。

私と同じく1年遅れて入学した仲間に萩原秀雄という男がいた。新進食料に勤めていて、気が強くプライドも高かった。2中で生徒会長をやっていたというだけあって、勉強もよく出来、向学心に燃えていた。同志的な感情が芽生えて、私とはすぐに親しくなったが、彼の一見、尊大に見える態度に反感を抱く者もいたらしい。

ある時、些細なことで彼が殴られ眼鏡が二つに割れて飛び散った。傍にいた私は、自分が殴られたようにカッとなって、気がついたときは、この男の顔面に力まかせのパンチを叩き込んでいた。毎日餅つきをして、力には自信がある方であったから、この男、目を打たれて医者に通う程のダメージを受けた。

この時は、お互いが悪かったと謝って、事は落ち着いたかに見えた。しかし、実はそうではなかったのである。後で知った事であるが、あるグループの中で、中村は、関係がないのに手を出して汚い、中村をやれということになったらしい。そして、私は気づかなかったが、ある男が秘かに機会を伺っていたのである。

私は、ある夜、学校帰り、自転車置き場の裸電球の下で、こっぴどく、顔が青く腫れあがる程殴られた。自分の為にこんな結果になって済まない、と萩原秀雄はしきりに同情するのだった。

萩原は良く頑張って大学へ進み、現在は労働省の役人として頑張っている。当時の私は、写真でも殺気立って見える程、張りつめた気持で毎日を過ごしていたのである。

この事件が決着し、やがて2年生になる。2年になるとクラスの雰囲気も大分変わった。腰掛組で去る者は去り、本当に定時制で学ぶ者だけの落ち着いたクラスとなったのである。(明日の日曜日に続きます)

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2006年10月20日 (金)

ヒヤリ・ハットは、薬の分野にも

 議会の控え室で用件を済ませて久し振りに五階へ登った。五階には議長室と秘書室があり、私にとって懐かしい場所である。かつての同士、鈴木室長や小林係長が笑顔で迎えてくれて、楽しい談笑の一時を過ごした。様々なことがあったなと人々の顔を見ながら私は議長時代を振り返っていた。今年も県民マラソンで10キロを走ることも話題になった。

 昨日の日記で、県立病院の「ヒヤリ・ハット」について書いたら何人かの人から反応があった。中に、「そんなことでは安心して医者にかかれない、医者に殺されてしまう」というものがあった。病院の「ヒヤリ・ハット」の実態を知れば病院に不信を抱き大きな不安を感じるのは当然だ。

 ところが、「ヒヤリ・ハット」は、病院や薬局の薬の処方、投与、調剤に関しても多く存在するというのだから困ったものだ。厚生労働省は、既に病院など医療機関の調査を進めているが、今度は、薬局を対象に調査を始めるという。薬局で薬の取り違いなどのミスが増えたのは医薬分業と関係がある。医薬分業制の下では、医療機関は処方箋を書き、薬局はそれに従って調剤する。だから、薬局とすれば、薬をただ売るだけの場合とことなり、処方箋を読んで判断して作業するという過程が加わるためにミスが生じる可能性が増えることになる。

◇医薬文業についての私の知識を書く。

 欧米諸国では分業の歴史は古く、今日一般に行われている。歴史的には、医師による毒殺を恐れた王族が、医師とは別の者に薬を作らせたことが起源とか。今日的意味としては、①薬の乱用を防ぐこと ②患者は「処方箋」を見ることが出来るから自分が使う薬が何かを知ることが出来ること ③病院と薬局で二重に薬のチェックが出来ること、などである。①の「乱用」とは、医師や病院の所には、保険で支払われる薬価より安く薬が入る。そこで薬を多く使うほど利益が上がるから乱用につながる。しかし、②の点は、患者に薬の知識がなければ意味がないとも言える。

 05年、全国の250の医療機関で、約18万3千件の薬に関する「ヒヤリ・ハット」があったという。薬局の調査では、どれほど多くの「ヒヤリ・ハット」が判明するであろうか。次々に新しい薬が生まれることを思うと不安になる。

 医療の「ヒヤリ・ハット」そして、薬の「ヒヤリ・ハット」と、生命や健康と最も深くかかわるところに、「ヒヤリ・ハット」が満ちている。私たちは、この問題にどう向きあえば良いのか。まず、私たちは、医療や薬に関する関心を高め、正しい知識を身につけなければならない。医者と薬屋にまかせっきりというのでは危な過ぎる。

 県政の課題としては、県立四病院では、これらの問題について模範となる実績を示すことである。愛県債を使って日本一の県立病院を目指すからには、医療と薬の両方について、まず、「ヒヤリ・ハット」を可能な限り少なくすることだ。

(安心安全な医療が実現することを願って。読者に感謝)

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

11月10日、PM6時グリーンドームで、面白い集いがあります。読者の参加を期待しております。

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2006年10月19日 (木)

ヒヤリハットは人命の危機だ

 9月議会は終ったが、行財政特別委員会の決算審査は続く。17日の病院会計審査で、私はいくつかの質問をした。ヒヤリハットはこの質問に関係することで、シルクハットの類(たぐい)のことではない。医療に従事する人がヒヤリと危険を意識した瞬間、あるいは、ハッと間違いに気付いて手を引っ込める、とかいうときのヒヤリハットなのだ。

 これが、県立四病院で一年間に2,999件あったと報告された。恐らくこれだけではないだろう。驚くべきことは、これでも全国平均より低いのだという。この中で死亡事故に至ったものが3件あった。これだけのヒヤリハットを、県立病院の医療従事者がどのように受け止めているかが正に問題なのである。

 この日の特別委員会には、県立四病院の医院長が全員出席した。それぞれが所属する病院について語ったが、私はまず、精神病院の院長の発言に注目した。それは、精神病院では、意思に反しても身体を拘束することがあるから、そこでの医療行為は人権、つまり人間の尊厳に関わることだというものである。

 私がここで思ったことは、医療が人間の尊厳に関わるということは、精神病院だけのことではないということである。つまり、ヒヤリハットも同様であるといいたいのだ。ヒヤリハットを軽く見て、日常のやむを得ない些細なことと受け取る傾向があるとするならそれは重大なことである。

 このような流れの中で、私は、医療現場における看護士等に対する教育の大切さにつき質問した。看護士は病院に就職する前に専門の教育機関で教育を受けるが、それとは別に病院という医療の現場で教育をすることが非常に重要ではないか、これが質問の骨子(こつし)である。

 県立病院の院長は、現場教育は十分に行われていないと答えた。また、病院管理者は、自分の経験を振り返りながら、日本の医療教育は間違っていたと思う、現場の教育こそ大事だと、ドイツやイギリスの制度を比較しながら答えていた。

 実は、私の所へ、現場から重大な指摘がいくつか寄せられていたのである。それは、共通に現場の教育不足を訴えていた。とくに、年配の看護士がやめてその補充として途中から参加した看護士に対する教育の不足を強調している。私は、現在の混乱した学校教育の中から看護の道に進む若者の姿を想像する。倫理観や規範意識を教えられていない現代っ子である。看護学校は、主に、理論や一般的な実践を教えるのであろう。現場は生きた応用問題と対決する場である。苦しむ患者、複雑な医療器具、新しい薬品、これらに対して戸惑い、慌て、迷うのは当然だろう。ヒヤリ、ハッと、このようなことが起こるのは不思議ではない。その度に、患者の生命が危険に晒(さら)される。日本一の県立病院は、現場の「人」にかかっている。まったなしのこの重要問題に、すぐにも取りかかるよう、私は強く主張した。

 (日本一の県立病院の現実を願って。読書に感謝)

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2006年10月18日 (水)

福田康夫先生の表情はすがすがしかった

 ある陳情で福田康夫さんを訪ねた。議員会館の警備は以前より厳しくなり、金属探知機をくぐらねばならない。この日の福田さんの表情は明るくてゆとりを感じさせるものであった。そして、官房長官時代の厳しさや、その後の総裁選出馬が話題になっていた頃の深刻さは消えて、冗談を言って笑う表情には若さがあった。私は手みやげに「望郷の叫び」を差し上げた。

 議員会館の近くにある首相官邸の入り口付近には多くの警察官が慌ただしく動き緊張感が流れていた。何度か入ったことのある官邸内部では北朝鮮をめぐる問題が協議されているかもしれないと思った。

 東京駅周辺ではビル建設が盛んに進められていて活気があり、日本経済が息を吹き返したことを物語るようであった。そのとき、直下型の大地震が発生したら、これらのビルは大丈夫なのかとふと不安が頭をよぎった。

 私の事務所は毎日あわただしい。11月10日のイベントが近づいているからだ。多くの団体に案内を出したり、連絡したり、「県政報告」を作ったり、仕事は山ほどあってスタッフは過重な仕事量に追われている。

 事務所の専従スタッフは4人である。簡単に紹介することにしよう。まず二人の女性は由紀子さんと香織さん、どちらも美人でてきぱきと気が付いて気立てがいい。私が疲れて外から帰ると、「先生、コーヒーにしますかそれとも紅茶ですか」と、すかさずどちらかの女性が美しい笑顔で応じてくれる。そこいらのクラブや喫茶店には決して負けない。そして、私の疲れはすぐに消えてしまうのだ。嘘だと思うなら是非事務所に一度来て欲しい。実はもう一人重要な女性がいる。人生の年数を重ね、多少容色が衰えて元気がなくなってきている。事務所のことをいろいろ把握していて私はこの人に頭が上がらない。我妻である。

 もう一人は、最近事務所に入った瀬下さんという男性である。一ヶ月は試験期間ということでお願いしているが、早くも重要な戦力になりつつある。大きな企業にいた人で、そこでの豊かな経験を生かせてもらえそうである。

 ところで、妻は、持病の偏頭痛で苦しんでいる。いろいろな病院へ通い、また薬を工夫したりしているがなかなか改善が見られない。ところが先日、ふと思いついて友人のS医師に相談したら漢方を進められた。漢方薬が効をそうしたのか、ここ二,三日、頭が軽いという。このまま、いい傾向が続いてくれることを祈っている。妻は、私が茶碗を洗ったりして台所を手伝う姿を見て、これが利いているので止めるとまた痛くなりますと言って笑った。

 夜、イベントで使う映像の編集に取り組んだ。20年前と最近のものと二つのポスターを並べる場面がある。二枚の私の顔は、歴然として時の流れを現している。もう一つの写真は私の4歳の時のもの。「邯鄲の夢」のたとえのように人生は夢のようだ。そんなこともかみ締めながら現代を考える楽しく有意義な集いにしたい。読者の皆さんにも是非参加して欲しい。

(11月10日集いの成功を祈って。読者に感謝)

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2006年10月17日 (火)

交通違反で切符を切られる

 運転中携帯が振動した。待っていた重要な要件に違いないと思った。間もなく振動は停止したが着信番号を知る必要があった。片手でポケットから携帯を取り出して数字を確認した。ちょうどその時、視野の中に白バイにまたがって車の流れを見ている警察官の姿が入った。私は、ハッと気付いた。咎(とが)められたら反論は出来ない。運転中の携帯電話の使用になるに違いない。白バイは静かに私を追い越して、左によって走れと合図した。少し走って道路わきのスペースを見つけて止まる。「おじさん、何の違反だか分っているね」と若い警官は言った。私は腹を決めていたので黙ってうなずいた。免許証の提示を求められ、いくつかのことをきかれ、反則切符を切られ、点数1と罰金6千円が告げられた。灸をすえられ恥じて猛烈に反省した。小さな違反を軽視することが規範意識を麻痺させるのだ。良い勉強になった。運転中携帯がなっても手を伸ばさないと心に誓った。

 ◇福岡県の中二の自殺はやりきれない。私の小中の頃もいろいろな先生がいた。今と違ってある意味でおおらかな時代で、マスコミもうるさくなかったから余計だったと思う。この事件の問題の教諭の様な言動も珍しくなかった。

 この教諭は、「からかいやすかった」と話している。伝えられることからすれば、この教諭には、生徒の心をのぞくデリカシーと人権感覚、そして、子どもたちに対する愛情が欠如していたと思う。生徒の親から相談を受けた内容を漏らした、偽善者にもなれない偽善者と呼んだ、新たな担任にうそをつく子だと申し送りをした、このようなことは信じられない程の重大事である。良いところを見つけて伸ばしてやるという教師の使命感がないと言わざるを得ない。

 なくなった生徒は、クラスのいじめムードに対して、はっきりと抵抗できない性格なのだろう。心の傷は進行していたのだと思う。原因となったクラスのいじめムードに気付かなかった教諭はクラス運営という点でも失格だ。

 このような事件が起きると、必ずマスコミが過剰に反応する。そして、このマスコミに煽られるように学校が動く。今回も同じだ。そのような中で伝わる校長の姿もお粗末に見える。ことの本質が分っていないのではないか。

 今回の事件を見て、自分にも思い当たる点がと感じる教師は案外多いのではないか。他山の石としなければならない。中学の「公民」で人権を教えるが、教師は普段の行動の中で生徒の人権尊重を実践しなければならない。子どもの心に差別感を生じさせる教師の一言は重大である。それは、子どもの心に深い傷を作る。大きな人権侵害だ。反対に、子どもを誉める一言は、子どもの可能性を引き出し、その子にとって一生の宝ともなる。難関の採用試験ではデリカシーの分る先生を選んで欲しい。

(学校の正常化を願って。読者に感謝)

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2006年10月16日 (月)

飲酒運転、全てを失う恐怖

 土・日の二日は、素晴しい秋の天気に恵まれて前橋祭りがにぎわった。普段、シャッター通りといわれ、また、ゴーストタウンになりかけたような街の通りが甦ったように明るかった。この活力が、祭りが終ると同時に消えてしまうのかと思うと淋しい。神輿(みこし)をかつぐ威勢のいい男たちが広場で焼酎を飲んでいた。今日は、祭りの後は必ず一杯やるだろう。そう思うと、ふと飲酒運転の事故がなければ良いがと思った。 このところ、飲酒運転の事故が多すぎる。そこで厳罰をもって臨むことになった。刑法に、危険運転致死傷罪を新設し、最高20年の懲役がかせられる。ところで、最近、ひき逃げ事件が増加しているが、それは、この厳罰化と関係があるらしい。飲酒運転で事故を起こしつかまって危険運転致死傷罪になるより、後になって引き逃げでつかまった方が罪が軽いからである。後になってひき逃げで捕まった時は、アルコールは体から抜けているから、危険運転とは認定されないという計算である。このような脱法を許さないために、ひき逃げの罪を重くすることを検討するらしい。この国会で、法務大臣が答えていた。 この日の夜、ある地区の私の後援会の役員会があり、会議のあと懇談会をやることになった。会の幹部が、「皆さん、飲んだら運転はしないで下さい。大変なことになるからお願いしますよ」と呼びかけていた。他人事ではないと思った。 ◇警視庁のホームページを見た。「一瞬で失うものの大きさ」と題する加害者の手記を掲載している。飲酒運転で人を死亡させた受刑者は、ドンという音ですべてを失ったと記している。自分がその立場に立ったことを想像すると背筋が寒くなる。このホームページは、従来、主に被害者の手記などを載せていたが、「加害者の手記」に改めたら関心が高まり、アクセス数が増加しているという。 飲酒運転の恐ろしさにつき一般の関心は高まっている。ある運転代行業者は、以前は考えられない程利用者が増えていると語っていた。車で帰ることを知って飲ませた店の側も、同じ賠償責任を負うとした判決のインパクトは大きいらしい。ある飲み屋の主人は、「一年分の稼ぎを賠償で取られたら大変ですよ、飲んで運転する常連だと分かっている人がいてね、運転するなら飲まないでくれとことわりました」、と話していた。 私は、この日、懇談会のあと、タクシーで帰ったが、運転手が語っていた。「一日に何回も会社で点検されるので大変です」。この会社では、運転手が飲んで運転しているのが分って、営業停止になるところだったのだそうだ。この運転手は、また、次のように話していた。「少しの金がもったいなくて、つい運転してしまうんですよ。自分はつかまらないと思って。そして、ビクビクしながら運転していると事故を起こすんですよ」。分り切った事だが、飲むと自制心が弱くなる。「すべてを失う恐ろしさ」を、飲まない時にインプットしておくことが大切だ。(飲酒運転がなくなることを願って。読者に感謝)       ★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

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2006年10月15日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(12)「元総社時代」

連載第12回「元総社時代」
 何の感慨もなく、ただ一つの重苦しいトンネルを通過するような気持で、私は中学を卒業した。今から思えば、進路については、いろいろ選択が可能であったと思うが、当時の私は、病弱の父の後を継いで家業に専念することを当然のことと考えていた。
 私は、煎餅をつくる仕事に専念することになった。近くの農家にコメを買いに行き、それを製粉し、煎餅を焼いて街に卸しに行く。一つ一つの仕事は辛くはないが、私には夢も希望もないつまらないことに思えた。しかし、食べるための仕事とはそうゆうものだから、仕方がないのだと自分に言い聞かせることにした。
 中学を卒業してからは、父にかわって、近くの農家によく煎餅の原料である米を買いに行った。当時、1升(約1.4キロ)が確か、108円位だったと記憶している。手焼きせんべいは、小売価格が4枚10円で、卸し値は1枚1円80銭であった。煎餅というのは、作るのに長い工程がかかるわりに利益が薄く、その上、売れゆきもよくなかった。なんでこんな割の悪い仕事をしているのだろう、と私はいつも疑問に思っていた。
 仕事そのものは、少しも辛くない。私が辛いと思うのは、町で仕事をしているとき、中学時代の仲間に出会うことであった。古びた自転車に煎餅のカンを積んでペダルを踏んでいると、かつて、一緒に学んでいた者達が、高校生となって、颯爽と歩いている。女子学生の制服が、又男子学生の制帽が、私には、きらきらと輝いて見え、また大変羨ましかった。向こうからかつての同級生が来るのが見えると、私は、ほとんど無意識にハンドルを切って横道へ入ったりする。そして、そんな自分が惨めで嫌だった。
 昭和31年といえば、敗戦から10年を経て、戦後という状態から抜け出しつつある時代であった。時代の潮流は混乱から秩序へ向いつつも、古いものにかわって新しいものがどんどん生まれ、社会は、なお激しく揺れ動いている感じであった。当時は鳩山内閣で、この年、日ソの国交が回復し、日本の国際連合加盟が実現する。
 社会風俗の面で印象的なのは、この年、売春防止法が成立し公布されたことである。前橋市の馬場川の近くに亀屋という菓子屋があり、中学生時代から、煎餅を卸しに行っていたが、夕方になると、そのあたりのあちこちで、お白いを厚く塗った女の人が道行く男に声をかけている風景をよく見た。私は煎餅を数えながら、好奇の目で、女たちの仕草、男たちの反応を眺めたことが思い出される。そして、この年、昭和31年から、この光景はぴったり見られなくなった。
 また、石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化されたのもこの年である。私は、この映画、次いで、やはり石原慎太郎原作の「狂った果実」を見てショックを受けたことを覚えている。
 激しい社会の動き、そこで起きる毎日の様々な出来事は、私を刺激した。私はやり場のないエネルギーを持て余し、あせり、苦しんだ。俺は煎餅を焼いて一生を終るのだろうか。宮城村の少年時代、いろいろな歴史小説を読んで、自分も将来は頑張って偉い人になろうと夢に描いたことは現実の壁にぶつかってシャボン玉のように消えてしまうのだろうか。
人間は、こんなにも現実に縛られてしまう弱い存在なのか、こんな悩みがいつも私の上に重くのしかかっていた。(次回は10月21日(土)に掲載予定です)

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2006年10月14日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(11)「元総社時代」

連載第11回「元総社時代」
  私が中学生になって、ある日のこと、父が突然苦しみ出した。
「殺してくれ、殺してくれ」胸をかきむしるようにして叫ぶ。母はなす術(すべ)を知らず狼狽(うろた)えて、近所に向って外聞もなく叫んでいた。
「助けて下さい。どなたか助けて下さい」
私は必死の思いで医者を探してつれて来た。父は注射一本で静かになったが、その、のたうちまわるようすは、これが地獄の苦しみかと思われる程で、本当に死んでしまうかと思った。医師によれば、心臓喘息という病気で、これからも起きるだろう。無理は出来ない、ということであった。
 この医師の言った通り、父は、これから時々、特に寒い季節のとき、このような地獄の苦しみを味わうことになる。父の病気については、その後、現在、県医師会の理事をされておられる佐藤秀先生に大変お世話になった。
 私が一番辛く思ったことは、いかにもみすぼらしい家の前を大勢の友人達に通られることであった。当時、元総社中学校は理研の跡地の一角で、現在の元南小の所にあった。一年に何度か全生徒が小学校との間を往き来することがあり、その時は必ず家の前を通る。<あれが中村の家だ><へぇー>そんな声が聞こえ、私は見も縮む思いであった。
 こんな状態であるから、高校進学も諦め、なかば自棄(やけ)っぱちの気持ちであった。付き合う友達も勉強よりはいたずらという連中が多かった。勉強組の中では、石井俊美と心を許して仲良くした位であった。
 この頃の楽しみの一つにプロレスがあった。一般の家ではテレビはまだ殆どなく、私達は、前橋公園の一角に設置されたテレビや新聞販売店のテレビに押しかけて、その興奮ぶりは大変なものであった。力道山、ルーテーズ、シャープ兄弟、クルスカンプ、オルテガ、ダラシン、キングコングと、当時の懐かしい面々が目に浮かぶ。
 とにかく、力道山は英雄だった。私達の世代は、白人、特にアメリカ人にはある種のコンプレックスを持っているが、その大きなアメリカ人をカラテチョップでぶっ倒すというのが、堪らない程痛快だった。学校でもプロレスごっこが流行ったりして、学校から、絶対に真似をしないようにと注意されたりした。
 正月には、もう一つ楽しみがあった。それは、福島浩と芝基紘が必ず遊びに来てくれたことである。惨めな生活ぶりを知られることは嫌であったが、彼らに会うのは涙が出る程嬉しかった。しかし、彼らも、3年の正月には来なかった。その頃、彼らは、私が諦めていた高校受験に、山間僻地の不利な条件と闘いながら、真剣に取り組んでいたのである。
 中学時代の先生では、大館光子先生のことが今でも心に残っている。先生方に対し心を閉ざし、あるいは避けていた私であったが、国語の先生である大舘先生とは、読書や作文という接点を通して心を通わせて頂いたと感謝している。助動詞の接続関係など、細かいことを覚えることができ、大学受験の時大変役に立ったのである。
(明日の日曜日に続きます)

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2006年10月13日 (金)

9月議会の重要な意見書と決議(その2)

  昨日に続き、警察官増員に関する意見書と飲酒運転撲滅に関する決議を取り上げる。

 本県の治安対策については、この議会で何人かの議員が取り上げて、新たに就任した折田警察本部長の決意を聞く場面があった。そこでも語られたことであるが、治安対策のカギは、民間の協力と警察官の増員なのである。

 日本の犯罪現象は深刻である。世界でも奇跡的といわれた良好の治安は過去の神話となった。私の子どもの頃は、殺人事件が報じられるとショックを受けたものだが、今日では、殺人は日常茶飯事の感がある。山の中で死体が発見されたという話も、またかと軽く受け取られる。日本中の山に死体が捨てられているかと思われる程だ。

 群馬県の犯罪状況はどうか。平成16年までは、刑法犯認知件数は、4年連続、本県における戦後最多を更新していた。そこで危機感をもった私たちは、犯罪防止推進条例をつくって官民一体となった犯罪抑止総合対策を推進した結果、昨年は、前年比で、犯罪認知件数は大幅に減少したのである。このことを話すと多くの人は群馬は犯罪の少ない県になったと思うようだ。

 しかし事実は違うのだ。本年8月末現在の犯罪率(人口10万人当たり)は、全国9位である。外国人の犯罪も多く、全検挙人員に占める来日外国人の比率は全国第2位だ。そして、交通事件に関しては、人口10万人あたりの交通人身事故件数及び負傷者が共に全国2位となっている。

 このような状況に対応するために警察官の増員は急務であり、昨年、私は議長として上京して増員を働きかけ、それが認められたが、引き続き大幅な増員を強く要望する、というのが意見書の目的である。因みに、本県の警察官一人当たりの負担人口は611人(全国17位)で全国平均の508人と比較して依然高水準にある。

 飲酒運転による事故が連日、大きく報道される。交通事故は、運転という正常な日常の行為に伴うことから罪の意識が薄い点に特色がある。だから通常過失犯として処罰されるわけだが、最近の事態は、私たちに、車の運転をもっと厳粛に考えるべきことを訴えている。

 8月飲酒運の市職員が幼児3人を死亡させた事件は、私たちに衝撃を与えた。この事件をきっかけに、全国の多くの自治体が飲酒運転に対し厳罰で臨む方針を打ち出している。公務員は模範を示すべき立場にあるから、これは当然のことであるが、一般の人々も、飲酒運転しないことを心に刻まねばならない。

 県議会の決議は、このような意識に基づくものである。「飲酒運転撲滅のためには、運転者自らが飲酒運転を絶対にしないという強い意識をもつことはもとより、社会全体が飲酒運転を絶対にさせない許さないという環境を醸成することが必要である。本議会は、飲酒運転撲滅に向けて全力を挙げて取り組むことを決議する」(要点)

(犯罪のない安全安心な社会の実現を願って。読者に感謝)

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2006年10月12日 (木)

九月議会が終る、重要な意見書、決議 (その1)

 最終日、第7号から第13号までの議案が可決された。それぞれ重要な、県議会提出の意見書や決議である。主なものを上げると、警察官増員に関する意見書、飲酒運転撲滅に関する意見書、群馬国際アカデミー問題の早期解決に関する決議、北朝鮮に断固たる措置を求める意見書、カラ主張自主返納残余金に関する決議等がある。

 残預金返納問題は、96年(平成8年)に発覚した県政史上の重大事件に端を発する問題である。県職員のカラ主張が報じられると、県担当課には一日中抗議の電話が殺到し、県民の関心は全てこの一点に集まったかの感が生じた。人々の関心は一気に高まるがさめるのも速い。あれから10年が経ちこの事が話題になることはほとんどなくなっていた。それが、この9月議会で再び問題になった。過去に遡って説明したい。

 最近、岐阜県で膨大な裏金の実態が明るみに出て信じられないという思いを抱いた人は多いことだろう。群馬のカラ主張の問題も構造的には同種のもので、カラ出張でつくった金は、裏金であった。岐阜県の事件を知って、この種の事件は、官庁ではどこでも絶えず起こり得ることを感じる。記憶を新たにすると共に、絶えず監視の目を光らせることが必要なのだ。

 事件は、オンブズマンの指摘をきっかけに発覚した。調査の結果、不正の旅費は、平成6年度分3億6千7百万円、平成7年度分3億5千万円である事が明らかになった。小寺知事は、「陋習(ろうしゅう)であり県民にわびる」と表明した。陋習とはわるいならわたしのことである。「旅費だけではないだろう」という声が当然のことながら起こった。フォーラム群馬は旅費以外に不適正支出の可能性がある分野すべての調査を県に申し入れた。

 この時、世論を刺激したことは、不正に受け取った職員からの返還は求めない、という小寺知事の発言であった。世論は単純に反応するから、「不正に受け取った金を返さないとは何事か」と轟々たる非難の声が押し寄せた。遂に県職員及びOBが自主的に返還することになり、集まった金は、驚くべきことに、総額11億3千7百万円に達した。不正額は、平成6年と7年の2カ年分にその利子を加えて計7億6千7百万であるから、これを返還して、残余金3億7千万円が生じたのである。

 残余金に関する決議とは、この金の処理のことである。決議は、この残預金が何ら活用されることなく現在に至っている、このままの状態で放置することなく広く県民の理解が得られるよう一日も速く処理することを強く要望する、というもの。二年分の不適切支出に限って処理したが、それ以前にもあった筈だ、残余金も県民の税金に帰すものだ、その放置は誠に怠慢ではないかという声が県議会にはある。従って、県議会の決議の意味は重い。

(県政の健全化を願って、読者に感謝)

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2006年10月11日 (水)

号外も出た、核実験、超兵器の意味

 北朝鮮の原爆実験に世界中が衝撃を受けている。号外まで出て次々に伝えられる事実に打たれるように、平和ぼけといわれた人々の間にもようやく緊張感と不安が生まれてきたようだ。特に、北朝鮮のミサイル技術と原爆が結びついたとき容易に日本に原爆が落とされる可能性があるということは人々にリアルなショックを与えている。

 北朝鮮は、日本をすっぽり射程に収めるミサイル実験をしたばかりである。もし、このミサイルで運べる小型の原爆を開発したら、そして、イラクのようにアメリカの攻撃を受ける事態になったとしたら、失うものは何もない北朝鮮は、アメリカの同盟国日本に先ず原爆を放つに違いない、人々は、この単純な論理に気付いたようだ。

 安倍新総理が掲げる「美しい日本」も、世界の経済大国日本も、平和が大前提である。北朝鮮に原爆を突き付けられて、人々は平和の尊さとその危うさに気付き始めたといえる。

 私たち日本人は一斉に同じ方向に動く傾向がある。ほぼ単一の民族で構成され言語も共通で宗教の対立もなく同じような価値観を持つからだ。ここに日本の強さがあると同時に危険性が潜むといえる。

 かつての日本は、同一の価値観に基づく中央集権体制の下で社会が一体となって動いた。それは、一面、現在の北朝鮮と似ていたとも言える。地方の時代とわれる今日、地方がしっかりと自治を行うことは、国の危機に直面したとき、冷静に判断し、真の力を発揮するための基盤なのだ。北朝鮮の現状を見るとき、日本の素晴しさ、及び、日本の守るべきものが、かえって浮き彫りになる。しかし、同時に、国を守る私たちの意識の薄さも。

 北朝鮮を見ると、歴史の歩みが止まっているように感じられる。かつての社会主義国ソ連は崩壊し、中国も生まれ変わったように変化した。このように世界が大きく変化しているのに北朝鮮はかたくなに古い姿勢を変えようとしない。歴史の歯車を止めた古い国が核という超兵器を握ろうとしている。国民の多数は、実験の成功を喜んでいるというが、恐らく原爆の真の恐ろしさを知らないだろう。

 ウランやプルトニウムの原子核を分裂させて秘密のエネルギーを取り出す原理を知った科学者は今日の事態を予想したであろうか。最初に核分裂を発見したドイツ人科学者ハーンは、昭和20年8月6日の夜、原爆投下を知らされ、すっかり打ちのめされ責任を痛感すると語ったという。

 この超兵器の秘密は米国からソ連に流れ、米ソの核競争の時代になる。核の技術は世界に広がり、パキスタンのようなひどい後進国も原爆を開発するようになり、遂に北朝鮮が原爆を手にする事態に至った。この先どこまで広がるのか。イスラエルと対立するイランがこれを持てば中東は大変なことになる。イランは今、北朝鮮のことを息を殺して見ているに違いない。唯一の被爆国の国民として少しも目を離すことは出来ない。

(アジアの平和が実現されることを願って。読者に感謝)

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2006年10月10日 (火)

北朝鮮の核実験のニュースで持ち切り (9日)

  地域を回っていたが、車のラジオと家庭のテレビはこのニュースで持ち切りだった。人々は高い関心を示していたが、受け止め方はまちまちで、多くの人は現実の不安を抱いていないようであった。

 9日午前10時35分、北朝鮮は遂に核実験を断行した。私達は他人事と思わずに注目し真剣に考えなければならない。この出来事は、日本外交の重大事と重なった。前日、8日、安倍総理は中国を訪問した。日中首脳会議で、双方は、北朝鮮の10月3日の核実験生命に深い憂慮を表明した。そして9日、安倍総理は韓国に飛び、日韓首脳会議が行われたが実験はその直前の出来事であった。「まさか、北朝鮮が日本に原爆をぶっ放すことはねえだんべ」農家の親父さんは笑いながら言っていた。

北朝鮮が核実験に成功したとすれば、また事実上の核保有国が増える。核兵器を持つ国を、米・ロ・英・仏・中の五カ国に限定し増やさないことを目的とした条約が核不拡散条約で、189カ国が加盟する。実験に成功しているインド・パキスタン、そして、核を持つと思われているイスラエルは未加盟である。この未加盟国に更に北朝鮮が入る。

核を持つ国がどんどん増えることは恐ろしいことだが、その恐ろしさは、被爆国でないと分からない。しかも核を持とうとする国は政情が不安定で追い詰められた国である。イラクは攻撃された理由の中に核疑惑がある。イランが持とうとしているが、この国もイスラムの危険な国である。北朝鮮は日本と関わりの深い、特に危険な国である。なぜなら、一部の独裁者によって、重要な国の政策が決定されてしまう恐怖政治の国だからである。パキスタンのときと同じように、実験成功を喜んでいる国民の姿がテレビで放映されていた。それは、国民の知らないところで国の運命を左右する出来事が進められる現実を物語るものだ。

21世紀の現在、北朝鮮のような国が存在することが不思議である。外国人の拉致、外国の航空機爆破、ニセ札や麻薬の製造など悪の限りを尽くしている。正義のない国はいつまで持つのだろうか。多くの国民は飢えているといわれる。最近の大水害では3万人の死者が出て、食糧難が深刻らしい。普通なら、革命が起きて政府は倒れているだろう。それを抑えているのは力による恐怖政治である。時々テレビで見る涙を流して将軍様をたたえる美女軍団の姿は哀れだ。それは国民の姿を象徴する。

 国民を欺いて無理を重ねる政権はどのような運命をたどるのか。そのように世界中が注目していた矢先の核実験である。本当にやっかいなことになった。日本の外交力が試されるときが来た。これは、私たち一人一人が試されることでもある。「美しい国」とは、国民の心によって正義が支えられる国だと思う。

(北朝鮮問題が落ち着くことを願って。読者に感謝)

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2006年10月 9日 (月)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(10)「元総社時代」

連載第10回 「元総社時代」
元総社で暮らした少年時代は、私の人生でも特別な意味をもつといえる。それは、貧しさということを真底味わったからである。この時代に身につけたこと、そして、体験したことは、宮城村でのそれらとは別の意味で、その後の人生における私のエネルギー源となったと思われる。また、それらは、宮城村の生活が私の心に春風を送り込みきれいな夢を育てたのとは対照的に、私の心に暗い陰をつくり、これを拭い落とすことは、私の青春の一つの課題となるのである。
 私は、昭和27年の秋、元総社小学校に転入した。宮城から移って私たち家族が住んだ所は、元総社農協の南、牛池川の端である。家財道具を積んだトラックに乗って、始めてここに来たとき、私はトラックから降りる気になれなかった。なぜ、こんな家にと思った。それは、宮城の家よりはるかにみすぼらしい、藁屋根、丸太の柱、そして荒壁の掘立小屋であった。父の説明では、一時ここに居て、住める家を捜すということであったが、父の身体の具合が一層悪化したという事情もあって、ずっとこの家に住むことになる。この掘立小屋に幅1間位の木造の部分を付け足して、ここで、コッペパン、アメ、トコロテン、などを売る三文商いを始めた。父の考えでは、ここで、煎餅を作り、店で小売りしながら、同時に、市内の昔のお得意に卸(おろ)せば食べて行けると考えていたようである。
私の家族は、宮城で、二人の弟・賢三と秀雄が生まれたので、4人のきょうだいと父母を入れて6人の構成であった。今から振り返ってみると、父が始めた駄菓子屋は、利益はほとんどゼロであった。コッペパンは9円で仕入れて10円で売る。アンパンは8円の仕入れで10円の売り、その他の菓子類も、利益は、大体2割、良くて3割である。そして、食べざかりの妹や弟が、いつも隙を窺い、パンや菓子を食べてしまうから、わずかな利益もすぐ帳消しになってしまうのだった。
また、煎餅作りというのも、割りの合わない仕事であった。煎餅は、粳(うるち:もち米でない、常食用の米)を粉にして、これから餅をつくり、これをうすく伸ばして丸い形に切り、これを干したものを炭で焼きこれを醤油で味付けをするという長い工程を必要とする。
そして、私の家のような零細も零細、ゼロに近いような零細企業では、碌な機械もなく、丸く形どりした餅を乾燥させるのも、屋根の上のお天道様を頼りにしなければならず、雨が降れば仕事にならなかった。
こんな状況であるから、その日の飯にも困る貧乏に陥ってしまった。中学になると、私は、学校から帰ると煎餅を焼き、それを市内の小売業者に卸しに行き、朝は暗いうちから新聞配達をした。
母は、群馬町国府村の住谷武男という農家の農作業の手伝いに通っていた。母は農家の生まれで、宮城にいたときも、農作業に従事していたわけであるが、知らない土地に越して来て、近所の目を気にしながら、農家の手伝いに通うことは、辛かったに違いない。そんな母の姿が、私には哀れに映った。
(次回は10月14日(土)に掲載予定です)

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2006年10月 8日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(9)「小学生時代」

第9回 「小学生時代」

 私は、この少年時代の読書から得たものが、その後の私の学問の基礎をなしたと思う。学校の勉強から全くといって良い程に背を向けた中学時代も、読書は唯一の楽しみであり、支えであった。後に定時制高校から東大を受験する事になった時、私の支えとなった漠然とした自信は、このような読書の習慣から得たものの蓄積から生まれたものと思われる。
 自分の体験から、私は、小学生の勉強は、国語が一番大切で、国語の範囲の教材を広げることで、社会も歴史も理科もカバーできると考える。
 小学校時代は、6年まで大体級長をしていたが、いたずらも先頭にたってやっていた。4年のときであったか、鹿田先生の時間、近くで火事が発生し、黒煙が空を多い、半鐘がけたたましく打ち鳴らされた。誰かが駆け出すと、男子全員が堰を切ったように教室から飛び出し、苗ヶ島まで火事を見に行ってしまった。後で大変しかられたことはいうまでもない。
 6年の時は、学校の近くのイチゴ畑で、クラスの何人かと一緒にイチゴをとって食べた。この時は、担任は砲丸投げの横沢先生で、お前は級長のくせにと、大きなシャベルのような手で殴られた。あの痛みを今も覚えている。
 6年の夏休みを最後に、私は懐かしい宮城小を去ることになった。この頃、父は無理がたたったせいか、健康を害するようになっていた。もともと、わずかな畑の収入では食べられないので、父は、宮城村と前橋を自転車で往復し、山羊の乳やいろいろな農産物を運んだりしていたが、体が弱くなって、前橋と宮城の間を往復する事が苦しくなったというのが理由であった。
 宮城村の思い出のなかで一つ大切なことがある。それは、学校へ行く途中、鼻毛石の小学校の近くで、よく出会った低学年の女の子のことである。利発そうな、可愛い顔立ちと、左手にぐるぐると巻いた白い包帯が傷々しく印象的であった。言葉を交わしたこともなく、それから長い年月思い出すこともなく過ぎたが、この女の子が現在の妻ヒサ子である。あの女の子が私の妻として選挙を共に戦うことになるとは、誰が想像できようか。宮城村の懐かしさと結びついて、不思議な縁というようなものを感じる。
 明日は宮城を離れるという日、私は福島浩と会った。福島浩は、しょんぼりしている私に、来年からは中学生になるから、みしめて勉強して高校へ行こう、高校でまたいっしょになれるではないかと言った。
 私は自分の将来が不安であった。高校へ行けるであろうか。町の学校はどんな所だろう。こんな思いを胸に私は、きっと遊びにきてくれよ、と彼に頼んだ。仲間と別れて自分だけが日の当たらない道に入りこんでゆくようで淋しくてならなかった。こんな私の気持ちがよく分かっている福島浩は、私をなぐさめ勇気づけようとしていた。私は涙が出そうなのをこらえ、新しい所で、福島達に敗けないように頑張らなければと自分に言い聞かせた。(明日の祝日に続きます)

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2006年10月 7日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(8)「小学生時代」

第8回 「小学生時代」
 小学校1、2年生の頃から、おもしろブックという月刊誌が出ており、クラスの松永という男が毎月とっていた。これを借りて福島浩や上野和仁等と回し読みをするのが大変楽しみであった。なかでも、山川惣治原作の劇画「少年王者」が面白かった。

 物語の舞台はアフリカ・コンゴの奥地である。ここに、住民から父のように慕われる牧師・牧村勇造が住んでいた。牧村は、どんな病気にも効く緑の石を発見する。これを狙う悪どい象牙商人の太田により、牧村夫妻とその一子真吾は、魔の山・マウント・サタンの出口のない谷底に閉じ込められてしまう。真吾はゴリラに育てられ、やがて密林の動物達から少年王者と呼ばれる、強く逞しい若者に成長する。牧村親子を探す救援隊の中には、美しい少女すい子がいた。魔人ウーラ、怪人アメンホテップ、黒人ザンバロ、黒豹ケルク、ゴリラのメラ、切り立った断崖と大密林。暗黒大陸といわれたアフリカは、私にとって夢と希望に満ちた憧れの存在であった。私は、物語の中に入り込み真吾少年になって胸をときめかしてすい子を危険から救い、手に汗をして魔人ウーラーと戦うのであった。 この他、おもしろブックには、サトウハチローのユーモアもの、久米げん一の「恐怖の仮面」という探偵ものなどが連載されていた。

 上野和仁は、三夜沢の赤城神社の近くにすんでいた。彼は大変なもの知りで、特に歴史上の人物について驚くほど良く知っている。学校の帰り道、荒木又右衛門がどうだとか、宮本武蔵がどうだとか得意気に話してくれる。私にはそれが羨ましかった。
ある日、福島浩と共に彼の家を訪ねて、彼の博識の秘密が分かった。おやじの書棚というのがあって、そこには、歴史小説がうず高く積まれていた。彼に頼んで一冊を貸してもらってから、すっかり病み付きになってしまった。上野は、父親の目を盗んでそっとぶ厚い本を私のカバンの中に入れてくれる。急いで家に帰ると、早速読み始め、夜は、ランプの下で母とかわるがわる声を出して夜更けまで読む。子供向けの猿飛佐助、塙団右衛門などから始めて、大人が読む太閤記、宮本武蔵、源平盛衰記など、上野の家の本はすべて読み尽くした。芝基紘や福島浩も、これらの本を盛んに読んでいた。福島、上野、芝、そして私と、学校の帰り道、上野から借りて読んだ本について語り合うのが楽しみであった。

 教育環境について言えば、当時は、のんびりとした時代であった。塾などは勿論ない。学校では割りと真剣に勉強したが、家に帰れば、子守り、麦踏み、あるいは薪拾いをさせられる。家では、趣味の読書に没頭した他は、勉強をした記憶はあまりない。しかし、この読書を通して国語の力、そして国語以外の科目や諸々のことについての判断力が身についたように思われる。特に歴史については、各時代の好きになった特定の人物を通して、その時代を見て来たようなイメージを自分なりに作り上げていた。
(明日の日曜日に続きます)

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2006年10月 6日 (金)

日本の教育は危機にある

 文科省の調査によれば、精神性疾患で休職する教員が増えている。この9月議会で明らかになったことだが、本県も同じだ。他の公務員にもこの現象は見られるが、他の公務員と比べ教員は格段に多いのだ。内山教育長は、教員は、今日の「社会状況」の中で、特にストレスが多いのではと答えていたが、その通りだと思う。

 私は、議会の質問のために多くの中学の先生にアンケート調査をしたが、ほとんど(約95%以上)の先生が忙しすぎると答えた。ある校長経験者は、父母がうるさ過ぎる、自分の子ども本位の意見をすぐにぶつけてくる、先生は神経をすり減らして萎縮してしまう、教育行政は、先生を守ってやることが必要だ、と私への手紙の中で訴えていた。教育長が言う「社会状況」には、このような事態も含まれていると思われる。

 今年の6月、新聞は都内の公立小学校の新任の女性教師が自殺したことを報じた。学級運営に悩んでいたらしい。教師の自殺は増えている。03年から3年間の自殺者は、年々増えて、74人・83人・87人となっている。この数字の背後には深刻な予備軍が多くいるのではないか。

 教師の精神疾患や自殺の現状は、教育界の危機を反映していると思う。しかし、打開策は必ずある。その一つは教育における地方自治だ。くるくる変わる文科省の方針に振り回されることなく、地方がしっかりとした教育行政を推進することである。そして、その主眼は、地域の教育力を高めることだ。地域社会の連帯が薄れ、しかも、社会の病理が広がっている。今ほど地域の教育力が落ちている時代はめずらしいのではないか。

 地域の教育力を高めるために、「教育の日」を定めることを提案しているが、なかなか実現しない。教育長は、「毎日が教育の日」だからといって消極姿勢を示したことがある。石原前教育委員長(9月で退任)は、委員会で質問され、「教育の日」について詳しく知らないと答えた。全国で「教育の日」を定める県は多い。本県でも前橋を初め、この日を定める市は増えている。地域自治体と県が連帯して、教育についての雰囲気を盛り上げることが必要で、「教育の日」はそのための一つの鍵である。新任の教育委員長は、事の本質を良くつかんで欲しいと思う。

 教育の危機をうかがわせる現象として、小学校で、校内の暴力が増えているという情報がある。先日、旧宮城村の小学時代の同級生と仲間の墓参りをしたが、その時、感じたことがある。昔は、勉強が出来なくても、いろいろな個性を認め合っていた。ビー玉やメンコが得意というだけでも評価され胸を張れた。今は、学力だけで子どもを評価する。「一人一人を大切にする」というかけ声とは逆の事態が進んでいるのだ。大局的見地に立って、良い教育を実現するために力を合わせたい。

(ぐんまのより良い教育の実現を願って。読者に感謝)

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2006年10月 5日 (木)

栄養教論が実現する

 昨年七月に食育基本法が出来た。これは、国民一人一人にとって、また、成長を続ける子どもたちにとっては特に、重要な法律である。生活習慣病の恐怖や、食の安全が叫ばれているが、その対応策の基本は健全な食生活の実現であり、この法律は、そのための基本理念を定めるからである。ところで、この「食育」をすすめる上で栄養教論の存在は重要である。

 「食育」とは、子どもに関していえば、食を通して生きる力を育むことだ。教育改革の中で、目指す学力とは生きる力ととらえることからして、「食育」は学校教育の重要課題である。だから、教壇に立って「食育」を正面から教える栄養教論は、「食育」の担い手として重要なのである。法律に基づいて、栄養教論が置かれるようになり、これまで26都道府県で実現されたが本県はまだだった。かねて、学校栄養士協議会の人たちと運動を進めてきたが、来年度から本県でも実現する。私の質問に教育長が答えた。

 今日、子どもたちの食生活の乱れは深刻である。商業ベースで危険な食べ物があふれている。これに対し、子どもには、自らを守る力を見につけさせなければならない。栄養教論の活躍ぶりとその波及効果を見守りたい。

◆「警察関係の常任委員会は話題が多い」

  須藤議員は有害図書の規制について取り上げた。深夜、実態を調べるために自販機を見に行ったら、女子高校生の汚れた下着まで売られていてひどかったこと、有害と指定するまでに時間がかかることなどを指摘していた。伊藤議員は、先日広島県で視察したことを踏まえ、群馬県の暴力団の現状とそれへの対応を質問。群馬の暴力団は69団体、1410人で広島より多いという。資金源として、覚醒剤・恐喝・みかじめ料・窃盗があげられた。窃盗があることには驚いた。

 群馬の犯罪状況一般については、犯罪の発生件数は、目立って減っているが、数そのものは、全国9位で高い。新任の折田本部長は、この絶対数を減らす決意を語っていた。

 私もいくつか質問した。主なものは飲酒問題、強い警察官についてなど。飲酒運転及びそれによる事故は連日、ただ事ではない。ビール大瓶いっぱいを飲んでアルコールが身体から抜けるのに、ある新聞は3時間かかると報じ、他の新聞は4時間と報じた。読んで影響を受ける人は多いだろう。客観的な基準を示せないかと質問したら、それは難しいということであった。「飲んだら乗るな」は、鉄則だが、「いつまで乗るな」が酒飲みには難しいが重要な問題だ。

 強い警察官であることは、必要はことだ。昔と違って、人権尊重を踏まえて強い警察力が求められている。それを支えるものは、警察の信頼だから、警察官のモラルを高めねばならない。銃を使う基準について、折田本部長は、必要な時はためらわずに打つことを指導していると答えた。もちろん、警職法の基本をしっかり踏まえてのこと。深刻な犯罪状況の中で、実態は変化していることを感じた。

(強く正しい警察官の活躍を願って。読者に感謝)

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2006年10月 4日 (水)

教育長は哲学を語るべきだ

 2日の常任委員会で、私と内山教育長との間で次のようなやりとりがあった。「国を愛する心、郷土を愛する心についてどう考えるか聞きたい」「先ず委員の考えを聞きたい」「質問しているのは私のほうだから教育長が答えるべきだが、では私の考えを述べたい」私は、ここで自分の考えを語った。すると教育長は、「その通りで、私も同じ考えだ」「それでは自分の考えを語ったことにはならない。教育長の考えを聞きたい」これに対し、「それは、歴史的な事実を教えることだと思う」と内山教育長は答えた。これは、国を愛する心を育むための一つの手段には違いないが教育長の哲学は伝わってこない。

 午後、共産党の伊藤氏が別の角度から愛国心をどう考えるかと教育長に質問。「そのような高邁(こうまい)な議論は国ですればよいこと。私は、早寝早起きが最も大切なことで、これをやらせれば良いと思っている。」内山教育長はこのように答えた。

これら二つの発言をどう理解するべきものか。

 私は、「早寝早起き」発言のほうは十分な答えになっていないと思う。早寝早起きは非常に大切なことで、子どもたちに正しい生活習慣と健全な身体・精神を身につけさせる基本であると思う。しかし、そのような大切な意味を持つものであっても、早寝早起きから直ちに国を愛する心や郷土を愛する心が身につくというものではない。私には、正面から答えているとは、どうしても思えないのだ。あるいは質問の本質を受け止めていないのではないか。

 安倍政権が誕生し、教育基本法の改正を重要課題に揚げこの点を中心にして教育改革を断行しようとしている。新たな衝撃波が地方の教育界に押し寄せるに違いない。その波に押し流されることなく、しっかりと地方の教育に取り組むことが今一番求められることである。そのためにも、教育基本法の改正案のなかで一番問題になっている「愛国心」(国を愛する心、郷土を愛する心)について、私たちは議論をしておく必要があるのだ。今の私たちの基盤(憲法)は、一人一人の価値観を尊重する立場である。それは、内心の自由を尊重することに他ならない。だから、権力が、これが愛国心と決めつけたり、上から与えるものであってはならない。国を愛するとか郷土を愛するとかの言葉を使わずに、子どもたちの心に感動を与え、自然に、日本という国、またふるさとに対し深い理解や誇りをもたせる、このことが、国を愛する心や郷土を愛する心を育むことになるのだと思う。教育長が歴史の事実を伝えることが大切と語ったのも同じなのであろう。

 教育長は分かりやすい言葉で哲学を語るべきだ。それは、群馬の教育に関する司令塔のメッセージであり、現場にしっかりとした方針を伝えることになる。現在、くるくる変わる政府の方針に現場は戸惑っている。教育における地方自治を実現するために教育長の熱い決意を語るときではないか。

(群馬の教育改革が進むことを願って。読者に感謝)

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2006年10月 3日 (火)

最近の交通違反はただごとではない

 車社会が異常に進んでいる。車は、あまりにも私たちの生活に入りこみ、あらゆる面で社会を動かす手段になっている。その利便性は絶大だが、害も大きい。交通事故による人身の被害は深刻である。
 車の事故は、運転と言う日常の正常な行動に伴って発生する。運転行為が犯罪でないため、そこから生じる結果が深刻であってもそれが犯罪だという意識に結びつかない傾向がある。だから、従来は、専ら過失犯(業務上過失傷害罪)として扱われてきた。しかし、社会の実情は、それを許さなくなった。刑法が改正されて、危険運転致死傷罪が設けられたのはそのためである。
 前に「日記」で触れたが、危険運転罪とは、アルコールなどの影響により正常な運転が困難な状態で運転し人を死傷させた場合で、死亡させた場合、最高20年の懲役刑が科される。実際、これまでに県外では、懲役20年の判決、同16年の判決が下されている。県内でも、平成17年に4件、平成18年(5月まで)に3件の判決があった。17年の一つのケースは、高崎市田町で起きた。それは、赤信号を無視して2名を死亡させたもので懲役6年の判決が下された。
 危険運転致死傷罪が実施されるようになってからひき逃げが増えているらしい。その場でつかまると飲酒がバレ危険運転とされることを恐れるからであろう。後で、酒が抜けてからひき逃げでつかまった方が軽いという計算である。そこで、このようなことを許さないためにひき逃げの罪を重くすべきだという動きが出ている。
 交通事故の原因の第一は、飲酒運転である。最近、飲酒運転でつかまる例が異常に多くなった。政治家、公務員、新聞記者などが連日のように報道されあきれる程だ。公務員の中には、警察官や教師もいる。問題外の悪質も多いが、中には、少量だからとか、時間が経っているから大丈夫という意識で運転する人も多いと思われる。
 「飲んだら乗らない」ことが鉄則だが、乾杯位は良いのかという量の基準、及び、一度飲んだら、アルコールがいつまで身体に残るのか、これらの知識も必要だ。
 フーセンをふくらませて呼気を調べる時、1L当り、0.15ミリグラムのアルコールがあると酒気帯びとなる。(少し前までは0.25だった)
また、ある研究によれば、体重60Kgの男性が、ビール大ビン1本、焼酎0.6合飲んだ場合、アルコールが体から抜けるのに3時間かかるという。体調や、体質にもよるのだろうが、3時間で完全に抜けるのか気になることだ。県警によれば、正に人によって個人差があるのでこの位は大丈夫とはいえないという。インターネットでは、アルコール検知器が1万円弱で売られているという。ハンディで安く、正確に計れる検知器なら、社会の需要があるだろう。(交通のモラルが向上することを願って。読者に感謝)
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2006年10月 2日 (月)

休養は、生活習慣病対策の一つだ。

10月が始まった。一年が矢のように早い。激流の中を流れていることを感じる。県政に難問が多いのと同じように私にも難問が山積。生きることは戦うことだと自分に言い聞かせる。

 正しい判断には体内の新鮮な力が必要だ。疲れた頭では的確な判断は難しい。「疲れた時、重要な決断はするな」という先人の言葉は重い。朝の心と夜の心では生み出す決論が違う。夜の疲れた頭では悲観的に思えることが、朝の充実した頭からは、全く違った結論が出てくることがよくある。そこで、眠ること、休養を取ることの大切さを痛感する。

塩川元財務相がテレビで小泉さんのことを語っていた。「小泉は夜の宴会に出なかった。疲れなかったからよくもった」と。なるほどと思った。アメリカの大統領などは、どんなに忙しくても週末は、別荘でよく休養をとるそうだ。休むことは、非常に重要な「仕事」の一部なのだと、私は最近思えるようになった。

 忙しさに埋没すると健康への配慮が疎かになる。生活習慣病患者が急増している。この対策のためにも忙中の閑は必要だ。私の回りに若くして脳梗塞で倒れる人が増えている。先日も、私が関わる、ある劇団の代表者が倒れた。呼んでも分からないのだ。私はその表情を見て、声を呑んだ。私は、奥さんに、「望郷の叫び」を渡しながら、その中に出てくる元抑留者の妻が植物人間の状態から奇跡的によみがえりつつあることを話した。塩原さんはシベリヤで極限の中を生きた体験から人間の生命力の神秘をどこまでも信じたのだと思う。

 私にはいつも見てもらっている良い医師がいる。中学時代家庭教師をした人で、立派な医師になった。二、三ヶ月に一度、血液を採取していろいろな点につきアドバイスをもらう。前立腺の肥大が進んでいる他は概ね良好な状態である。「前立腺」は、昨日今日のことではない。私のことを良く知っている友のようなもので、これからも長く付き合っていくつもりだ。一病息災というが、身体に悪いところがあって生命や健康に謙虚になることが一つの良い生き方だと思っている。

 最近この医師に注意されたことは、体重を減らせということだ。ちょっと気を抜いたら70kgになっていた。言われた目標は67kgである。11月の県民マラソンで今年も10キロを走る。昨年は57分台で完走したが、今年もこの記録で走るためには、3kgの減量は必須である。

 ここで改めて「内臓脂肪症候群」のことを思う。厚労省は5月、内臓にたまる脂肪が糖尿病・心筋梗塞・脳梗塞など生活習慣病の原因だと大きく取り上げ、予備軍まで含めると2人に1人が当たるという。「メタボリックシンドローム」という言葉を使ったが、このカタカナの響きが刺激的であった。特に肝臓にたまる脂肪が問題らしい。内臓脂肪は運動によって容易に減らせることが救いだ。「メタボリック」という刺激的な言葉も、時の流れと共に私たちの頭の中で薄れていく。目の前の患者の姿を見て改めて思った。

(県民の健康を願って。読者に感謝)

★土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を掲載いたします。

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2006年10月 1日 (日)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(7)「小学生時代」

第7回「小学生時代」

下の部落へ引越しても、まだ、学校迄は片道7キロもあった。また、近所が近くなったという他は、生活もそんなに変わらなかった。電気はなく、ランプの生活で、ランプのほや拭きは、手がちょうど穴に入るというので私の仕事だった。このランプの灯の下で、母がよく本を読んでくれた。これが唯一の楽しみで、お陰で私は本が好きな子どもになっていった。

学校までの道程(みちのり)は、子どもにとってかなり厳しいものであったがもっと遠くから通っている者もいた。夜が明けるとすぐに、私の家を見おろす土手に立って、「おうい、中村ぁ、おうい、中村ぁ」と毎朝大声で迎えに来る男がいた。芝基紘(しば もとひろ)といって、私の家より更に何キロか離れた赤芝という所に住んでいた。仲間うちでは、奴は暗いうちに家を出てくると噂していた。彼は、現在、タカベン(高崎弁当)の重役として活躍している。夜、遅く電話すると、まだ帰っていない、朝、7時前に電話すると、もう出たという。彼の並はずれた行動力の元は、宮城の少年時代につくられたものであろう。この他、前期の福島浩、上野和仁などと仲良くなった。

 私が小学校へ入学した昭和22年は、カスリン台風が関東を襲い、各地に大きな被害を与えた。学校へ行く道中には、新井橋、神沢橋という、二つの橋があったが、台風の朝登校時既に濁流が恐いほどの勢いで橋桁を洗っていた。学校は午前中で終わりになって、私は、この橋の上を走り抜けるようにして帰ったが、その夜、この二つの橋は、流されてしまった。村では、流されて行方不明になった者も出て大騒ぎであった。台風が去ると、多くの田や畑は、大きな石ころがころがる河原のようになり、また、いたる所山から流されてきた流木や壊れた家の残がいが山となっていた。

 この頃、戦争や台風で痛めつけられた人々の心を癒すようにりんごの唄が、いたる所で歌われていた。

     赤いりんごに唇よせて

     だまって見ている青い空

     りんごはなんにもいわないけれど

     りんごの気持ちはよくわかる

     りんご可愛いや可愛やりんご

私は県会議員となって、敬老会で唄をうたう場面がよくあるが、そんなとき、戦後の苦しかった時代のことを話し、この唄をうたうと大変に受け、涙ぐむお年寄りもいる。私とは親子ほどのへだたりのある人々と、この唄を通じて共通の思い出にひたることが出来るのが何より嬉しい。

小学校の低学年から本が好きになれたことは幸いであったと思う。当時は何の娯楽もない時代で、特に私の家はラジオもない状態なので、本を読むことだけが楽しみであった。(次回は10月7日(土)に掲載予定です)

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