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2006年10月 9日 (月)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(10)「元総社時代」

連載第10回 「元総社時代」
元総社で暮らした少年時代は、私の人生でも特別な意味をもつといえる。それは、貧しさということを真底味わったからである。この時代に身につけたこと、そして、体験したことは、宮城村でのそれらとは別の意味で、その後の人生における私のエネルギー源となったと思われる。また、それらは、宮城村の生活が私の心に春風を送り込みきれいな夢を育てたのとは対照的に、私の心に暗い陰をつくり、これを拭い落とすことは、私の青春の一つの課題となるのである。
 私は、昭和27年の秋、元総社小学校に転入した。宮城から移って私たち家族が住んだ所は、元総社農協の南、牛池川の端である。家財道具を積んだトラックに乗って、始めてここに来たとき、私はトラックから降りる気になれなかった。なぜ、こんな家にと思った。それは、宮城の家よりはるかにみすぼらしい、藁屋根、丸太の柱、そして荒壁の掘立小屋であった。父の説明では、一時ここに居て、住める家を捜すということであったが、父の身体の具合が一層悪化したという事情もあって、ずっとこの家に住むことになる。この掘立小屋に幅1間位の木造の部分を付け足して、ここで、コッペパン、アメ、トコロテン、などを売る三文商いを始めた。父の考えでは、ここで、煎餅を作り、店で小売りしながら、同時に、市内の昔のお得意に卸(おろ)せば食べて行けると考えていたようである。
私の家族は、宮城で、二人の弟・賢三と秀雄が生まれたので、4人のきょうだいと父母を入れて6人の構成であった。今から振り返ってみると、父が始めた駄菓子屋は、利益はほとんどゼロであった。コッペパンは9円で仕入れて10円で売る。アンパンは8円の仕入れで10円の売り、その他の菓子類も、利益は、大体2割、良くて3割である。そして、食べざかりの妹や弟が、いつも隙を窺い、パンや菓子を食べてしまうから、わずかな利益もすぐ帳消しになってしまうのだった。
また、煎餅作りというのも、割りの合わない仕事であった。煎餅は、粳(うるち:もち米でない、常食用の米)を粉にして、これから餅をつくり、これをうすく伸ばして丸い形に切り、これを干したものを炭で焼きこれを醤油で味付けをするという長い工程を必要とする。
そして、私の家のような零細も零細、ゼロに近いような零細企業では、碌な機械もなく、丸く形どりした餅を乾燥させるのも、屋根の上のお天道様を頼りにしなければならず、雨が降れば仕事にならなかった。
こんな状況であるから、その日の飯にも困る貧乏に陥ってしまった。中学になると、私は、学校から帰ると煎餅を焼き、それを市内の小売業者に卸しに行き、朝は暗いうちから新聞配達をした。
母は、群馬町国府村の住谷武男という農家の農作業の手伝いに通っていた。母は農家の生まれで、宮城にいたときも、農作業に従事していたわけであるが、知らない土地に越して来て、近所の目を気にしながら、農家の手伝いに通うことは、辛かったに違いない。そんな母の姿が、私には哀れに映った。
(次回は10月14日(土)に掲載予定です)

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