« 心の古里・旧宮城村を歩く | トップページ | 余りに多い身近な人の悲惨な例 »

2006年9月 5日 (火)

神秘的な性衝撃

 昨日、柏倉町のある農家を訪ねた時のことである。母屋に至る長いかい道を踏みしめながら、私は瞼(まぶた)に焼きついているある光景を思い出していた。私を出迎えた老人の顔には長い年月を超えてよみがえる昔の面影があった。「あそこに種つけ場がありましたね」と言うと、老人は「よく覚えていますね」と笑いながら答えた。

 小学校の4~5年生だった。学校帰り、柵の中で、二頭の馬が異様な行動をしていた。ヒヒーンと叫びながら、後ろ足で立ち前足で空を切るようにして雌馬に覆いかぶさろうとする黒い雄馬の姿は魔法の世界から現れた生き物のように見えた。

 直後、信じられないようなことが起きた。長くのびたペニスを小父(おじ)さんが両手でつかみ、頭の上に捧げるようにして雌の後部にあてがおうとした。一、二度失敗したが、やがて小父さんの手にあった松の枝のようなものは雌の身体の中に消え、雄は一際高く叫んだ。間もなく雄が離れると同時に、雌の後ろから黄色い液体がどっと溢れ出た。 「あれで子が出来るんだ。」隣で、私と同じように目を丸くして固唾を呑んで見ていた友達が言った。意味がよく分からないが私にとって神秘的な体験だった。目の前の老人はあの時の小父さんに違いないと思った。

 当時、村の農家ではどの家も馬を飼っており、山の作業に出かけるとき、可愛い子馬が母馬の後ろについてゆく姿が良く見られた。草を食べたり遊んだりして子馬が遅れると、気にして振り向く母馬、それに促されるように走って近づく子馬、そんな美しい光景を見るにつけ、子馬の誕生と母子の絆が、あのような種付け行為からスタートしていることが私には信じ難いことであった。

 今日と比べ性に関する情報はほとんどなかった。小学生の私の最大の疑問は、人間も同じなのかということであった。当時、私たち悪ガキは、道路や壁に女性の性器の絵を描いたり、だれちゃんとだれちゃんはやったなどといって戯(ふざけ)ることが楽しくて仕方なかった。しかし同時に、このようなことは、いたずらの世界の下品なことできちんとした所で口にすることは恥ずかしいことと思っていた。

 人間も動物と同じという確信は時と共に深まった。しかし、上品な人間があのような行為をして子どもが生まれるということはやはり謎であり神秘なことに思えた。今の子どもたちは素朴で神秘な心の体験を経ないで低俗な性情報の渦に投げ込まれる。そして、生命の神秘への思いとか人間とは何かを考えるいとまもなく快楽の手段として「性」を受け入れていく。性を簡単に快楽と結びつけることは、人間の軽視、生まれる子の生命軽視につながる。高校生の40%がセックスを経験、日本は先進国で唯一エイズ患者が増えている、このような事実を重く受け止めなければならない。小父さんと話していて思った。

(若者の性教育の在り方を考えたい。読者に感謝)

|

« 心の古里・旧宮城村を歩く | トップページ | 余りに多い身近な人の悲惨な例 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神秘的な性衝撃:

« 心の古里・旧宮城村を歩く | トップページ | 余りに多い身近な人の悲惨な例 »