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2006年9月23日 (土)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(4)「宮城村で開墾生活」

第4回 「宮城村で開墾生活」

昭和20年の秋、私達家族は、勢多郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の最北の地大倉山という所で開墾生活に入った。妹の恭子が生まれたばかりで、一家4人であった。各地からいろいろな人が入植する予定であったらしいが、実際、掘立小屋を建てて済み始めたのは、東京の新小岩からやって来た画家の池田さん、前橋の百軒町から登った小池さん、それと私達の三軒であった。

小川の流れる沢のどん詰まりの低い斜面を削って掘立小屋が建てられた。小川はそこの小石の一つ一つが見え、足を入れると夏でも痛いほど冷たかった。石を動かすと小さな蟹がいくらでもとれ、また、水面を覆って、川菜がいっぱいはえている。ぐみや山栗やあけび、そして、きのこと珍しいものがいっぱいで、私は、さすがお父さん、よい所へ連れてきてくれたと喜んだ。

しかし、それは初めのうちだけで、すぐに開墾生活の厳しさをいやという程味わうことになった。篠を刈って、唐鍬でおこし、土をふるい落として、篠の株を取り除く。父母のそばで、掘り起こした株を運び出したり、妹の世話をするのが、私の仕事であった。

苦労して作った薩摩芋を収穫することは大きな喜びであったが、毎日、御飯のかわりに食べさせられ、しまいには、薩摩芋の上にぽろぽろ涙を流し、薩摩芋を見るのも嫌になった。

私は時々、下の部落に味噌や醤油を買いに、行かされた。

「お金を落とさないように。蛇に追われたら真直に走って急に横へ曲がって逃げるんだよ。」などと母親に注意されて出かける。長い道のり、山道を歩いてゆくと、本当に、私の背丈よりずっと長い青大将によく出会った。急傾斜の道は、雨のたびに赤土が流されて、道の両側は私の背よりも高い崖になっている。ここで、夕立にでも会うと、道は、濁流が音を立て滝となって流れる川に一変する。私には、蛇よりも、こちらの方がこわかった。

この坂道については懐かしい思い出がある。ある日、母は、虫歯の治療で前橋まで行くことになった。治療を受けている間、妹の恭子をみておくれと言われ、私はいっしょに出かけた。朝早く家を出て、大胡迄歩き、そこから前橋迄電車に乗る。

私を連れて行くと母は大変便利であった。改札口が開くと、大人たちの間をリスのようにかいくぐって、電車に飛び込み座席を確保するのが私の役目であった。

その日も、私は小さな胸に、秘かに期するところがあって、一生懸命働いた。治療中も妹をよくあやして面倒を見た。帰りに今井の玩具屋に立寄った迄はよかったのである。(明日の日曜日に続く)

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