« 『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(2)「原点に遡る」 | トップページ | 眠れぬ夜、山岡鉄舟に出会う »

2006年9月18日 (月)

『上州の山河と共に』中村のりお著 連載第3回「曲輪町で生まれる」

曲輪町で生まれる

私は昭和151030日、前橋市曲輪町103番地で生まれた。世の中は太平洋戦争の方向へ向かって突き進んでいる騒然とした時代であった。既に、昭和13年には国家総動員法が作られ、私が生まれた15年には、日独伊三国軍事同盟、16年には、日ソ中立条約が結ばれ、そして、1612月、遂に、太平洋戦争突入となった。

 私が生まれた曲輪町103番地は、今は大手町の県庁前通り、秋葉写真館がある四つ角で、北側の東の角、今は、安田生命ビルが建っている所であった。父は、ここでせんべい屋をしていた。私の祖父は、福井県で羽二重の工場を大きくやっていたが、大恐慌で事業がうまく行かず、前橋にやって来てせんべい屋を始めたのである。

そこは、当時は萩町といったが、現在は昭和町、3中の北側の道路に面した所で、屋号は東京煎餅であった。当時とすればめずらしいオート三輪を使い、製造、卸をかなり手広くやっていたらしい。父は二男であったので、結婚と共に独立し、前期の場所で商売をすることになったのである。母は、総社町山王の鹿野という百姓の娘であった。これが、私の簡単なルーツである。

私が生まれて間もなく太平洋戦争が始まり、父は徴用で理研で働くことになった。商売が出来なくなったのを機に、私たちは、近くの曲輪町102番地・高島さんの借家に移り住むことになったが、この頃から戦局は次第に悪化しつつあった。当時の私に詳しい事は分かる筈もなかったが、ただならぬ状況が進んでいるらしい事は理解できた。

私は、北曲輪町のマツテヤ幼稚園に通っていたが,空襲警報が鳴ると防空頭巾を被って先生に手を引かれて逃げ帰ったことなどが思い出される。また、夜、眠い目をこすりながら、母親につれられて、県庁裏の、今は幸の池となっているあたりの、小高い桜の丘の下に並んでいる防空壕に逃げ込み、息を殺してB29の音を聞いたことなど、今でもはっきりと思い出される。

そして昭和2086日広島に、89日には長崎に、それぞれ原爆が投下され、815日にはポツダム宣言受諾をつげる玉音放送が行われ、遂に終戦となった。

当時4歳であった私も、もうこれからは防空壕へ逃げ込まなくてもよいということは嬉しかったし、父や母のほっとしている気持ちがよくわかった。しかし、同時に、又、これから大変なことになるらしいという父母の不安も伝わってきた。

県庁前通りの、一本北の通りには、皮膚科の松山医院があるが、当時、この医院の玄関先で、ひどい火傷のひとがいつも治療を受けていたのを覚えている。この人は、全身包帯で、車のついた台の上に寝かされ、白衣の看護婦や医者が取り囲むようにしている。こわごわのぞくと、オチンチンをつまみ上げて治療している。あんなところまで火傷をしたのだろうか、痛いだろうな、戦争とは何と怖いものだろう、と私はつくづく思った。

いろいろな情報が乱れ飛んでいたらしい。鬼畜米兵が上陸してくると大変な事になる。また、国民の大半は、食べ物がなくて餓死するだろう。こんなうわさを信じた父は、食料を自給し、家族を飢えさせないことが第一と考え、赤城の山奥で開墾生活に入ることを決意する。(続く)    

(次回は923日(土)に掲載致します。)

★バックナンバーはカレンダー下のカテゴリ欄の「上州の山河と共に」にてお読み頂けます

|

« 『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(2)「原点に遡る」 | トップページ | 眠れぬ夜、山岡鉄舟に出会う »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『上州の山河と共に』中村のりお著 連載第3回「曲輪町で生まれる」:

« 『上州の山河と共に』中村のりお著 連載(2)「原点に遡る」 | トップページ | 眠れぬ夜、山岡鉄舟に出会う »