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2006年6月13日 (火)

元シベリア抑留者と語り合う

 塩原眞資さんは、一昨年、かつて抑留されていたシベリア抑留地を、私と一緒に訪ねた人である。拙著「望郷の叫び」で書いたが、シベリアからの帰国は正に奇跡の生還であった。復員後結婚し苦楽を共にした妻が昨年脳の障害で倒れ植物人間の状態になった。塩原さんは毎日枕元で語りかけた。塩原さんを支えたものはシベリアの体験であった。数ヵ月後に奇跡が起きたのである。わずかに意識が戻り、最近では、涙を流して反応するまでになった。医師は非常に珍しいケースだと言っている。

 私は、焼酎のグラスを口に運びながら塩原さんの話に耳を傾けた。「寝たきりのおっ母さんを女房は10年間よく世話をしてくれた。そのお返しだと思っているんです。」塩原さんは照れたように笑った。

 塩原さんは母を語り、その話は、シベリアで祖国の母に焦(こが)れた抑留者たちのことに及んだ。

 抑留3年目になると帰れないかもしれないという絶望感が漂うようになった。そんな時、母を語る東北出身のある上等兵がよく引っ張り出されたという。サツマ芋のような顔の男が、母が、しわだらけの手でにぎりめしを作る場面を語るとき、暗い中で、鼻水をすする音があちこちで聞かれたという。

 息子を待つ岸壁の母のことは有名であるが、異国で絶望の淵に立って母を慕う気持ちはいくつになっても変わらないらしい。戦場で死に臨むとき、天皇陛下万歳と叫ぶ人は少なく、多くの人はおっ母さんといって死ぬというがうなづける事だと思う。母と子の絆は何物にもかえ難い。少子化との関係で非婚が問題とされるが、女として生れたからには母となって子を育てることは、この世に生を得た何よりの証(あかし)ではないか。家庭の力、親子の絆、母と子の絆が弱くなっている。このことは、日本がますます地盤沈下していく兆候に思える。

「この歳になって、女房のところへ通うのが辛いと思うことがありますが、シベリアのことを思えばこれ位のことは何でもありません」塩原さんはしみじみと振り返っていた。

 戦後の復興を支えた人々の心の底には、塩原さん程ではないにしても、「あの時のことを思えば」という心の基盤があった。しかしこのことは、豊かな社会に、ぽっと現われた人々には、通じない。今、新たな心の基盤が求められている。それは上から与えられるものであってはならない。教育をめぐる重要な課題でもある。

(塩原さんの奥さんの更なる回復を祈って。読者に感謝)

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サンパウロの移民資料館を訪ねて。大蛇のはく製と。

昨年8月27日の「日記」

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