2020年8月15日 (土)

小説「死の川を越えて」第260回

 ここで尋問は、人権尊重の憲法の下で人権侵害の極致ともいうべき出来事を取り上げた。

「子孫を絶つための断種、堕胎が療養所内で実際に実行されていたというのは信じ難いことですが事実ですか。また、断種、堕胎が事実として結婚の条件にされたのですか」

 大谷は尋問者の顔を鋭く見詰めて頷きながら静かに答えた。

「はい断種、堕胎は実際になされていました。また、結婚の条件にされていたと思います」

 法廷にため息に似たどよめきが起き、重い波のように広がるのが分かった。最悪の人権侵害が行われたことに傍聴人は一様に異次元の世界を覗く思いであったに違いない。

 尋問者は、この光景に驚いたようだ。そして怒りの表情を抑えきれない様子で言った。

「この断種堕胎こそ、人間性を否定するハンセン病患者の隔離絶滅政策の頂点を成すものではありませんか」

 これに対し大谷は言葉を捜している風であったが、意を決したように言った。

「はい、患者さんから未来を奪ってしまったということは、犯罪的な悲しい出来事であったと思います。この断種による心の傷は、犬畜生や猫と同じに扱われたという大変な屈辱感だったに違いありません。人間の尊厳を否定する人権侵害の極致でした」

 法廷はこの言葉に水を打ったように静まり返った。その静寂は人々の強い怒りを語っていた。

 尋問者は務めて平静を装う風にして言った。

「あなたは、厚生省で国立療養所課長に就任以来、隔離政策を弾力的に運用し、らい予防法の死文化、空文化を目指したと言われますが、それはどういう理由ですか」

「はい、私の原点ともいうべき恩師小河原泉氏は、国賊だという批判を受けながらもいろいろとご自分の信念を貫かれました。そこで私としても恩師にならって出来る限りのことはしたいと考えたからです」

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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2020年8月14日 (金)

人生意気に感ず「シベリア抑留。にせの民主運動。シベリアのサムライの再評価」

◇シベリア抑留につきもっと知りたいという要望がいくつか寄せられた。ブログでの限られたスペースで語り尽くせるものではない。多くの抑留経験者が、胸が痛んだと語るのは「民主運動」であった。これは民主主義の運動ではない。収容所で行われた“つるし上げ運動”のことである。日本の軍国主義を批判しソ連を擁護する運動であった。収容所側、つまりソ連当局に迎合するゴマスリである。運動の指導者は抑留者中の者で当局から特別扱いされ、多くの抑留者は表面的にはこれに協力した。ある抑留者は語った。「天皇制支持者とされた者等が壇上に立たされ、やじられ、追求される。日本人同士の異国での酷い争いに本当に胸が痛んだ」

 多くの日本人はこの運動に協力しないと帰国が許されないと思っていたらしい。スターリン大元師への感謝状に64,000人以上が署名したと言われるものも唯一途な望郷の念からであったに違いない。

「望郷の叫び」で書いたが、帰還船の上ですさまじい復讐劇があったと言われる。船がソ連の領海を離れた時、「そろそろいいだろう」ということで始まった。いわゆる「民主運動」の指導者は「俺たちを覚えているだろうな」と言われて引きずり出された。ロープで縛って海中につけたという話もある。瀬島隆三は回顧録で書いている。「本気で海にぶん投げようと相談していたが彼らにも親兄弟があると言って指導した」と。

◇前回ブログのハバロフスク事件の関連で注目すべき事実がある。これも「望郷の叫び」で書いたことである。平成になってからロシア科学アカデミーの学者アレクセイ・キリチエンコが発表した論文「シベリアのサムライたち」である。論文はハバロフスク事件を正しく、そして高く評価した。「統一行動は十分に組織され、秘密裏に準備され情報漏れもなかった。事件は軍の突入で抵抗は終ったが兵士は銃を持たず日本人の負傷者もほとんどなく、解除後の交渉では日本人側の要望はほぼ満たされた」と。これはハバロフスクの古文書館長が私に示した大きな好意と共にソ連(現ロシア)を一方的に悪と見るべきではないという私の考えを支える材料となっている。

◇これも「望郷の叫び」で書いたが、ハバロフスク市郊外にある立派な「平和慰霊公苑」のことである。この存在を許すことにソ連の一片の良心を感じた。ここを真冬に訪れた当時の小泉首相は外套を脱いで大地に跪きシベリア人は一斉に拍手したという。ロシア人はシベリアのサムライの姿を見たに違いない。(読者に感謝)

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2020年8月13日 (木)

人生意気に感ず「シベリア抑留・望郷の叫び。スターリン大元師への感謝状とは」

◇終戦の夏を迎えてどうしても記したいのはシベリア強制抑留である。あの夏、約60万人の日本人が強制連行されそのうち6万人近くが命を落とした。生き残った人々はそれに劣らぬ苦しみ味わった。シベリアの真実は未だ終っていない。私は平成16年の夏、前橋の二人の抑留体験者と共にシベリアの抑留跡地を訪れた。二人とは塩原眞資さんと青柳由造さんで二人とも既に世を去った。塩原さんは夏草の中に立つ「日本人よ静かに眠れ」と書かれた墓標の前で「俺だけ先に帰って悪かった」と声をあげて泣いた。ギリギリの飢えと酷寒と重労働の中でどこまで人間でいられるのか、私はそれを知りたかった。ニューギニアとシベリアは共に地獄であった。戦争とはかくなるものかを後世に伝えなければならない。私はシベリア訪問で外務省の協力により貴重な資料を入手し、そこで得たものも踏まえて帰国後、「望郷の叫び」を出版した。日本人は酷寒さと重労働の苦しみと共にあるいはそれ以上に孤独に苦しんだ。「狂おしいまでの孤独と不安。歌でも歌わなければ耐えられなかった」。これが日本人抑留者の共通の心理だった。こういう情況で作られた「異国の丘」はシベリア中の収容所で歌われた。「がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ帰る日も来る春もくる」、「今日も更けゆく異国の丘に夢も寒かろ冷たかろ」、「倒れちゃならない祖国の土にたどり着くまでその日まで」。これを歌っている時、過酷な現実を一時忘れることが出来たと塩原さんは語った。

◇私はこの本で一章をさいて「スターリン大元師への感謝状」を書いた。帰りたい一心で書いた最大のゴマすりの文である。当時、一片の書類も持ちかえることは許されなかった。ましてや屈辱の文を持ち帰ろうとする人は少ない。私は国立古文書館の特別の計らいでコピーを入手した。上層部の承認などの手続きを経たのである。私がもう一つ力を入れて書いたのは日本人が最後に意地を見せた「ハバロフスク事件」である。「サムライはどこに行った」。「日本人の抑留者は奴隷のようだ」と他国の抑留者は言った。この事件は高学歴の長期抑留者が瀬島隆三の指導を得ながら石田三郎が中心になって限られた環境で必死の見事な抵抗運動を展開した。この中の中心人物の一人は貴重な資料を提供して協力してくれた。これらの人々の帰国は故鳩山一郎首相による日ソ国交回復条約によって実現した。(読者に感謝)

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2020年8月12日 (水)

人生意気に感ず「地獄の戦場ニューギニアを振り返る。岩田亀作さんのこと。コロナ対策分科会とは」

◇私は間もなく80歳であるが生涯に2度の大戦争を経験する思いである。炎に追われて逃げた前橋空襲のこと、ネズミを焼いて食べていたおじさんの姿、山の小学校での授業中お尻から長い回虫が出てきたことなどが記憶に鮮明である。そして今回のコロナ戦。この戦争の真の恐ろしさを私たちが実感するのはこれからかも知れない。世界の感染者は2,000万人に迫り、死者は70万人を超えた。この8月はコロナ戦と重なってあの大戦が甦る。平成13年のニューギニア慰霊巡拝の旅は衝撃の戦場を私たちに突きつけたのだ。私は小著「今甦る地獄の戦場」を書いたが、ニューギニアは正に地獄であった。この中で、私は岩田亀作さんの体験談も載せた。岩田さんは談ピール海峡、サラワケット越え、野戦病院のことなどを話してくれたが映画などよりリアルで鬼気迫るものだった。衛生兵だった岩田さんは上官から「マラリアの薬と言って飲ませろ」と渡された毒薬を土に埋めた話、そしてサラワケットの山中でウジにまみれて死を待つ兵士のことなどを聞いた。この慰霊の旅で一つほっとしたことがあった。それはポートモレスビーで特命全権大使の話を聞いた時のことである。「当時の日本人に対する感情は」と私が質問すると、田中達夫大使は身を乗り出すようにして「大変良かったのです」と答えたのだ。白人は現地の人を豚や虫けらのように軽蔑したが日本人の兵士は平等に付き合ったという。それは十分に頷けることだと思った。古来、人間は肌の色でランク付をして差別してきた。白が最上位で黒が最下位である。その間に黄色や赤などを位置づけた。黒は人間とみない状態が長いことあった。その現われが奴隷制度であり、コロナ禍の中のアメリカの黒人差別である。これらは肌の色による差別がいかに根強いかを物語る。最後の秘境と言われるニューギニアの人たちはこのコロナとどのように戦っているのかと気にかかることである。

◇日本の感染状況が新たな局面を迎えている。コロナ対策で政府を実質的に動かしているのは専門家たちの意見である。6月まで続いた専門家会議が「コロナ対策分科会」となった。目的は「感染防止策」及び「経済対策」の二つを追求すること。会長の尾身氏は感染症対策のことだけを考えるなら緊急対応のレベルを上げるべきだと強調している。政治の決断を下すトップはこの事態で生命か経済かを秤にかけて迷っているのだろう。(読者に感謝)

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2020年8月11日 (火)

人生意気に感ず「やはり気になるお盆の帰省。原爆慰霊式に出る。原爆の恐怖を教える時」

◇9日、新たに県内感染者5人が発表された。県内の累計は226人。うち死者は19人である。じわじわと迫ってきたという感じである。そして、最近の特徴は県外行動歴のある感染者が増えていることである。最近の増加状況は東京都に限らず各地で増えている。お盆にはこのような全国の増加地域から多くの人が来県するわけである。群馬県知事は、お盆は大切な伝統行事だからという理由で、特にお盆帰りの自粛を要請しないと表明した。知事発言の影響を私は心配する。

◇9日、私は嶺公園の原爆慰霊式に参加した。長崎投下の午前11時2分に合わせ黙祷をささげた。15歳の時長崎で被爆した矢野留恵子さんは90歳には見えないかくしゃくとした姿で「あの日のことは忘れられない」と挨拶した。私も挨拶の機会を与えられた。「75年目の夏を迎えあの戦争の惨状が忘れられようとしている。あれは新生日本の原点であった。今年の夏はこの原点を確認する時である。コロナの下で迎えることも特色である。原爆の惨禍を自分のこととして受け止めることが重要である。ここに真の助け合いが生まれる。コロナの克服に最も大切なことはこの助け合いの精神である」ざっとこのようなことを述べた。

◇ちょっとした雲の状況と変化が長崎の運命を決めた。第一目標は小倉市であったが、この日小倉の上空は雲で覆われていた。そこで爆撃機は小倉を断念し、第二目標の長崎に向った。長崎も雲で覆われていたが雲の切れ間が見つかり11時2分の投下となった。広島投下の原爆がリトル・ボーイと言われる砲弾型のウラン爆弾であるのに対し、長崎のは通称“ふとっちょ”と言われるプルトニウム爆弾であった。重量は両方ともおよそ4トン(長崎投下の方は4.7トン)であった。

◇アメリカは膨大な予算を注いで1945年7月16日には実験に成功、それは早くも8月6日広島、9日長崎にそれぞれ投下された。

 私は小学校を2年生の時、原爆の映画を観て大きな衝撃を受けた。当時子どもたちは「ピカドン」と言って原爆の地獄を表現しようとした。その後、学校では教科書の上でも原爆を教えなくなったようだ。福島第一原発事故を振り返るとき、国策としての原爆を守るために同根ともいうべき原爆に触れることを敢えて避けてきたのかと思ってします。75年目の夏に於いて原爆の恐怖を正しく知ることが原点を踏まえる上で重要であると思う。(読者に感謝)

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2020年8月10日 (月)

小説「死の川を越えて」第259回

傍聴席は満席であった。副島は、証言を整理して受け止められるように、らい予防法等の主な法令の動きを予め次のようにノートに書きとめて証言を待ち受けた。

「癩予防法成立(昭和6年)

新憲法公布(昭和21年)

優生保護法成立(昭和23年)

新らい予防法成立(昭和28年)

らい予防法廃止(平成8年)」

 この裁判の中心は、厚生省及び国会の強制隔離政策が憲法に違反しているか否かであるから、尋問もこの点に集中した。そして、憲法とは昭和21年に公布された日本国憲法のことであり、これは人間の尊重つまり基本的人権を柱にしていた。強制隔離政策が基本的人権を侵害し憲法違反に当たるか否かは最も重大な論点であった。

 尋問者は、新憲法下の隔離政策から入った。

「戦後、基本的人権を強く保障する日本国憲法が施行された後、戦前の隔離政策に変化はありましたか」

 大谷は、躊躇なく答えた。

「いえ、変化はありませんでした」

 傍聴席がどよめいた。

「そのことについてどのようにお考えですか」

「はい、新憲法の精神というものを行政や国会などがよくよく認識すれば隔離政策はこれに反することは明らかですからもっと早く廃止を検討すべきであったと思います」

 大谷は、基本的人権を強く保障する新憲法の下で、当局が隔離政策を続けたことをはっきりと批判したのだ。隔離政策の遂行は厚生省の責任に、また隔離政策の廃止は立法の問題であるから国会の責任にそれぞれ結びつくことである。

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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2020年8月 9日 (日)

小説「死の川を越えて」第258回

和泉氏は、ハンセン病の専門家として正しいことをきちんと証言しなければならないと考えましたと決意を語ったのです。この時、回りからはほっとした人々の胸の内が静かに流れるのが感じられました。

 それを見て、これは私の個人的な思いですが、和泉氏は京大病院の大先輩たる小河原泉氏の壮絶な生き様と信念を体現しているように見えました。また、これも私の感想でありますが、和泉氏の証言は裁判官の心証に大きな影響を与えたに違いありません。近づく次の口頭弁論に備えて、大谷証人は、和泉証言をしっかり受け止めていると思います。和泉氏は京大の医師ですから国の役人です。そして、大谷氏もかつて国の役人でハンセン病対策の最高責任者の地位にあった人です。しかも和泉さん、大谷さん2人とも小河原泉の信念を強く受け継いでいる人です。大谷氏の証言が待ち遠しいようです。私たちは一大ドラマの展開を見る思いであります。国の隔離政策の象徴がそちらの重監房だと思うと私たちは何か運命の流れともいうべきものを感じます。この流れの中で正太郎さんたちがおられることが不思議でなりません。大谷さんは、自身の証言で正太郎さんのことを取り上げると申しておりましたね。実に楽しみです。皆さんの興奮の息づかいがこちらに伝わってくるようです。どうか皆さん、次の私の報告をお待ちください」

 

 大谷富男の証言

 

 やがてその日が来た。傍聴席に副島と共に、本吉と有馬の姿があった。彼らは大谷証人の姿を見詰め一語も聞き漏らすまいと緊張していた。証言の中味は、裁判所に請求し入手して水野に送るつもりであるが、それとは別に副島たちが心で受け止めた感想を水野に報告するつもりであったからである。

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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2020年8月 8日 (土)

小説「死の川を越えて」第257回

 ここまで読んで水野は副島と同じように胸を躍らせ冒険小説の先に期待するような気持ちで視線を進めた。副島の文は続く。

「尋問は、和泉証人のこのような信念の背景に向けられ旧癩予防法に及びました。国の予防策の中味はと訊かれ和泉証人は、国は猛毒の菌による強烈な伝染病だから絶対隔離が必要だと主張していたと答えました。そして、尋問は、では当時の医学界にそのような伝染病説に対して批判的な見解を持った人はいたかと訊ねました。私はいよいよだなと思いました。和泉証人は、批判的な見解の代表的人物は京都大学の小河原泉氏だと答えたのです。

 ここで尋問者は深く頷きながらその小河原氏は学界でどういう立場であったかと訊きました。この時の和泉氏の態度は見事なものでした。胸を張り顔を上げ、小河原氏が大阪の日本らい学会で総攻撃に遭ったことを語ったのです。小河原氏を糾弾する学界の光景が目に浮かぶようでした。『その考えは隔離政策を危うくするものだ』、『お前は万死に値する者だぞ』、『実にけしからん』という怒号の中で小河原は自説を翻さなかったと和泉証人は誇らしげに語りました。

 そこで尋問者は、全てのハンセン病患者を絶対隔離することの弊害を訊ねました。これに対する証言は実に明快で、私たちには、侍が国の誤った政策に名刀を振りかざす姿にも見えました。和泉氏は、隔離によって患者の人生がめちゃめちゃになってしまう。全ての患者を隔離することで、外来診療で十分治る患者まで療養所に入れてその人たちの人生を台無しにしてしまうことは残酷すぎるとはっきり証言したのです。

 これを聞いた時私も本吉氏も有馬氏も国の隔離政策を行政の場で遂行してきた者として正に身を切られる思いでありました。尋問は窮極の結論を求めるかのように切り込みました。国の長いハンセン病対策の歴史を振り返って国はどのような理念でハンセン病対策を進めたのですかと。

 和泉氏は、これを正面から受け止め堂々と答えたのです。国はハンセン病をなくすというよりも、ハンセン病患者を全員隔離し死に絶えるのを待つというかたちで撲滅政策を進めたのですと。私の周りの傍聴席から信じられないというどよめきが広がるのが分かりました。私たちが、皆さんにお知らせしたい証言の主な点は以上でありますが、最後に和泉氏が証人に立つに至った覚悟をお伝えします。それは、尋問者が和泉氏に証人になるに当たっては随分悩んだのではないかと訊いた時のこの人の姿です。和泉氏は胸を張り姿勢を正したのです。

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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2020年8月 7日 (金)

人生意気に感ず「終戦に果たした鈴木貫太郎の役割。お盆の帰省が心配だ」

◇8月15日が近づくと鈴木貫太郎を思う。前橋市の桃井小の校庭には鈴木の言葉を刻んだ石碑が建つ。「正直に腹を立てずにたゆまず励め」。腹をたてずに、つまり忍耐は生涯を貫いたこの人の哲学であった。75年前の御前会議もギリギリの忍耐で乗り切ったに違いない。日本の運命が鈴木の忍に懸かっていた。鈴木が総理大臣に就いたのは昭和20年4月7日、日本は断末魔を迎えていた。鈴木が日本を救った宰相と言われるゆえんは最後の御前会議を巧みに導いて終戦を実現させたからである。鈴木を議長とする会議は即終戦派と本土決戦派が3対3に分かれいずれも譲らず長時間に及んだ。機をみて鈴木が遂に発言した。「議を尽くすこと既に数時間、なお議は決しない。かくなる上は聖慮をもって決定と致したい」鈴木はこう言うや、さっと立って進み出て天皇の意見を求めた。ここに、私は軍人鈴木の大いなる戦略があったと思う。「どう致しましょう」などと図っていたら事態は動かなかったに違いない。軍の統帥権は天皇にあるが立憲主義の建前から天皇が自ら決断を下すことはしないのが慣例であった。しかし国家存亡の非常時であり、議論はギリギリ尽くしたのである。鈴木が聖断を仰ぐことに異論はなかった。天皇は「もう意見は出つくしたか」と言い、「自分は外務大臣の意見に賛成する」と述べた。外相の意見とはポツダム宣言の受諾である。天皇のこの発言によって、つまり聖断によって終戦は決定したのである。天皇が「耐え難きを耐え」と述べた時、会議のメンバーはどっと泣き伏し、中には身もだえ号泣する者もあったと鈴木はその自伝で書いている。この御前会議の状況及びそれを踏まえた8月15日の天皇の言葉は新生日本の原点である。

 長く平和が続きあの大戦も忘却の彼方に去ろうとしている。今年は図らずもコロナ禍の下で8月15日を迎える。日本の原点を確認することがコロナに勝つための要である。

◇山本知事は、お盆は特別な行事だからとして帰省の自粛を求めないと述べた。お盆後にどのような影響が現われるか心配である。県内感染者が増加している。6日、新たに10代から50代の男女6人が陽性と判明。10日連続の感染確認で累計では208人、うち死亡は19人である。これまでの県内感染中には都や他県へ訪問した人が多い。このことからもお盆の帰省は心配である。(読者に感謝)

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2020年8月 6日 (木)

人生意気に感ず「感染者と人権の碑。コロナ禍の中小企業の悲鳴」

◇インターネットという超文明の利器がいじめに使われている。コロナの嵐が吹き荒れる中で「感染者狩り」が横行している。いじめはいつでもどこでも尽きないものだが、コロナの感染が爆発的に増加する中で多くの人が冷静さを失いパニックに陥っているようだ。礼節の国と世界から讃えられる日本がコロナの海で漂い始めたかのようだ。

 私は先日新聞に岩手県初の感染について投書した。そこで第一号感染者は大変なプレッシャーを感じているに違いないこと、発生後の対応が岩手県の真価を問うことになること、そしてこれまで頑張った岩手県に拍手等と書いた。その後の報道によれば初感染者に対する「感染者狩り」の実態が発生していると言われる。初感染者の勤務先企業がホームページで感染を公表すると2日間で100件以上の電話やメールがあり、中には感染した社員をクビにしたのかと執拗に迫るものもあったと言われる。

 コロナの感染者に油断等責められる要素があったにせよ、誰でもがその立場に立たされる可能性をもっている。これだけ感染状況が酷くなると明日は我が身と考えなくてはならない。「狩り」に参加している人はいつ逆に狩られる立場におかれるか分からないのだ。

 最大のコロナ対策は助け合うことである。「感染者狩り」はコロナを助ける利敵行為であることを私たちは自覚すべきである。私はハンセン病の患者等が地獄のような差別といじめに苦しんだことを知った。それを乗り越えて私たちは「人権の碑」を建てた。それには「私たちは人間の空を取り戻した」と刻まれた。今や人間の空がコロナで覆われようとしている。人間の空を真に取り戻すことは私たちが助け合うことに懸かっている。インターネットの匿名性に隠れて「感染者狩り」をやる人は最大の卑怯者であると言わねばならない。本格的な第二波が押し寄せていると考えるべき現在、この新しい波に打ち勝つために感染者をいたわり、思いやる心こそが求められている。

◇コロナの影響で倒産する中小零細企業が増加している。3日までに全国で400件と言われる。東京都は飲食店とカラオケ店への営業時間短縮要請を行ったがこれにより倒産件数は更に増えると予想される。私の回りからも零細企業の悲鳴が聞こえてくる。コロナの嵐によって江戸時代の飢饉に似た状況が生じている。(読者に感謝)

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